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太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ〔一般的には「すうふ」で通っているが、近年の研究では「そうふ」と読むのが一般的である。小和田哲男『今川義元』(2004年)、有光友學『今川義元』(2008年)など参照〕)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 また後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された〔。 == 生涯 == === 義元の幼少時代 === 雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる〔川口素生『戦国名軍師列伝』P91〕〔歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P293〕。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得寺に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた〔。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度にわたって上洛し、善得寺から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った〔。この頃に承芳は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改めたとされている。 今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、義元の同母兄である氏輝が跡を継ぎ、母の寿桂尼が後見した〔。天文4年(1535年)、善得寺の住持であった琴渓承舜の7回忌法要のため駿河に戻り、再び善得寺に入る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太原雪斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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