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太地喜和子 : ミニ英和和英辞書
太地喜和子[たいじ きわこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

太地喜和子 : ウィキペディア日本語版
太地喜和子[たいじ きわこ]

太地 喜和子(たいち きわこ、1943年12月2日 - 1992年10月13日)は、日本女優。本名は太地 喜和子(たいじ きわこ)〔吉行淳之介『新面白半分対談』p.146(講談社1975年)〕。別名は志村 妙子(しむら たえこ)。東京都中野区出身〔『欲望という名の女優』p.160-165
『太地喜和子伝説』p.25
『ぴあシネマクラブ 日本映画編』p.707(ぴあ2006年)〕〔『日本映画俳優全集・女優編』p.389(キネマ旬報社1980年)〕〔。
== 来歴・人物 ==
和歌山県東牟婁郡太地町もあるが、父親は同県新宮市の出身〔『この人に聞く1』p.28-29(学生社、1987年)〕〔『フォーカスな人たち』p.210-241、472〕。太地は自身の出生について「自分はさる事情から、生後すぐ実母との別離を余儀なくされ、養父母の元に引き取られたと高校在学中に知った」と談話している。太地の実母については、某有名人ら数名の名が取りざたされたこともあるが、詳細は不明のままである。ただし、太地の母はこのことを強く否定している。
新宿区立牛込仲之小学校~千代田女学園中学校卒〔。松蔭高等学校在学中の1959年に、東映ニューフェイスの第6期に合格。同期には千葉真一亀石征一郎真山知子茅島成美新井茂子都築克子らがいる。東映と専属契約し、当初は志村 妙子(しむら たえこ)という芸名で映画に端役で出演していた。1962年高校卒業後、翌1963年東映を離れ俳優座養成所15期生入団、同期に前田吟村井国夫がいた。『欲望という名の電車』の杉村春子の芝居に衝撃を受け、1967年文学座に入団した。同年、日活映画の『花を喰う蟲』に主演。その演技を新藤兼人監督に認められ1968年藪の中の黒猫』に抜擢されると、全裸もいとわぬ演技で一躍有名になった〔。舞台女優として『欲望という名の電車』、『近松心中物語』、『唐人お吉』などで杉村春子の後継者としての期待が高まり、実力派として活躍した。テレビドラマでも『白い巨塔』の花森ケイ子役などを演じている。
私生活では、俳優座養成所時代からの同期だった秋野太作1974年に結婚するも、短期間で離婚。その他三國連太郎十八代目中村勘三郎七代目尾上菊五郎志村けんとのロマンスが取り沙汰されたこともあったが、「私はサービス精神がある限り、見ている人にこの人は帰ったら所帯があると思わせてはいけない」というポリシーを持っており、離婚後は生涯、独身を通した。また当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らした。「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画「飢餓海峡」のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡ったが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で俳優座に戻り女優一筋の道を選ぶ。その後文学座で加藤武に育てられる。その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしているが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っている。
この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになった。
1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、乗用車トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故〔ちなみに、スプリンターシエロは当該事故の時点で、既に生産を中止していた(1991年5月の生産中止と同時に、モデルそのものも廃止された)〕により48歳で死去。同乗者の外山誠二大滝寛は泳いで脱出したものの、太地は泳げなかった上〔「洗面器の水でも溺れてしまう」とカナヅチであることを語っていた〕、乗車前に深酒をしていたことから生還できなかった。駆けつけた佐藤陽子は、「死に顔は眠っているようだった」と語っている。
太地の事故死直後、プライベートでも親友だったカルーセル麻紀が自身の舞台上で感極まり「喜和子ぉ!!」と絶叫しながら号泣した場面がワイドショー等で放送された。
太地はコメディアン志村けんの大ファンであり、その縁でTBS系『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に出演したほか、フジテレビ系『志村けんのだいじょうぶだぁ』ではコントにも挑戦。柄本明と共に常連ゲストとなり、亡くなった際には急遽番組で追悼企画が組まれ、1992年10月19日に放送された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太地喜和子」の詳細全文を読む




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