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太宰 春台(だざい しゅんだい、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。 == 略歴 == 信濃国飯田城下生まれ。平手政秀・汎秀の子孫で、父・言辰の代に下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となり平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い飯田藩士となったが、堀親常により改易され、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修め、元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩の松平氏に仕え、元禄9年(1696年)17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。 元禄13年(1700年)21歳で官を辞し、以後10年の間畿内を遊学する〔他の説では、春台が次第に朱子学に疑問を抱くようになり、母親の死を機会に出石藩を辞し、学問に専心しようとしたが、藩主は一方的な辞任と受け取り、21歳の彼に10年の禁固を命じた、とある〕〔岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ]』 原書房 2011年 66ページ〕。その間に漢詩・天文学・地学・朱子学などを懸命に勉強した。宝永元年(1704年)富士山に登り、京都に入った。そこで、伊藤仁斎の講義を聴き、人格にうたれた〔。 宝永6年(1709年)30歳の時、大阪に入り、結婚した。 正徳元年(1711年)32歳で自由の身になり、江戸に戻った。正徳3年(1713年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒学特に古学へと転向した〔。正徳2年(1712年)に下総生実藩の森川俊胤に再仕官。だがこれも正徳5年(1715年)36歳で辞し、以後生涯仕官することはなかった。 正徳5年(1715年)36歳の時、本格的に研究・執筆活動に入るとともに、江戸の小石川に塾を開き、多くの門人を集めた。また、何人かの大名から支援された。〔。 のちに徂徠の説を批判し、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。また、征夷大将軍こそが「日本国王」であり、鎌倉・室町・江戸の3時代それぞれに別個の国家が存在したと説いた。その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。 著書に『経済録』・『経済録拾遺』・『産語』〔ここまでは『日本経済大典 九』(滝本誠一編、明治文献、1967年)に収録〕・『聖学問答』・『弁道書』・『三王外紀』など。 延享4年(1747年)、68歳の時、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺にあり、都の指定史跡となっている。出身地の長野県飯田市中央通り3丁目には春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は1947年(昭和22年)の飯田大火で焼失し、現在は2代目。 日本に『経済』という言葉を広めた人物でもある。また長野県民歌『信濃の国』の歌詞中にも登場している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太宰春台」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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