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太田一吉 : ミニ英和和英辞書
太田一吉[おおた かずよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いち]
  1. (num) one 

太田一吉 : ウィキペディア日本語版
太田一吉[おおた かずよし]
太田 一吉(おおた かずよし、? - 元和3年(1617年))は、安土桃山時代武将大名)。豊臣氏の家臣。別名に政信・宗隆・政之・重之・重正などがある。父は太田宗清。子は太田一成。飛騨守。小源五。
== 生涯 ==
一吉の太田氏の本姓は菅原氏で、美濃国の太田村出身。元々は斯波氏の家臣であるが、父の宗清は織田氏に仕えた。
はじめ丹羽長秀に仕え、長秀の死後は豊臣秀吉に仕える。朝鮮出兵では目付役を務め、文禄の役で晋州城の戦いに参加。文禄の役での失態により大友吉統が改易されると、その旧領であった豊後国臼杵に6万5,000石を領した。なお、一吉が出世(豊後国の諸大名の中で、6万5,000石は大身であった)できたのは、一吉が石田三成と親しく、その引き立てが常にあったためといわれている。慶長の役では南原城の戦い蔚山城の戦いに参加。その後、福原長堯熊谷直盛らと共に吏僚派として、加藤清正福島正則武断派と対立することになる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは甥の太田政成を東軍に、息子の一成を西軍に参加させ、自身は病と称して居城の臼杵城に立て籠もっていた。しかし、その態度が一吉が西軍に与していると見なされ、東軍に与した黒田如水中川秀成に攻められると、降伏した。なお、一吉はこのとき、小身の秀成に降伏することを恥辱として、秀成とは徹底交戦し損害を与えた後(佐賀関の戦い)、かねてから親交があった如水に城を明け渡している。
その後は京都に隠棲し、元和3年(1617年)に死去した。
category:織豊政権の大名
category:戦国武将


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太田一吉」の詳細全文を読む




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