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太田 資正(おおた すけまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。太田資頼の子。武蔵国岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)主、のち常陸国片野城主。 == 生涯 == 大永2年(1522年)、扇谷上杉氏の家臣・太田資頼の次男として誕生。 はじめ、父や兄・資顕と同じく扇谷上杉氏に仕えた。天文5年(1536年)の父の死後は、兄が家督を継いだが、資正は資顕と不仲であったため、岩付城を出て舅の難波田憲重と松山城に住んでいたとされる。その後、兄は相模国の北条氏への従属に傾いていくが、資正は憲重らと共に扇谷上杉氏に仕え続けた。その後、天文6年(1537年)、憲重は北条氏との戦いで3人の息子と甥の隼人正を失ったため、資正は憲重の婿養子として松山城の継承権を得たとされている〔大圖口承「国人難波田氏の研究-その存在形態を中心に-」(初出:『埼玉史談』225・226・228号(埼玉郷土会、1991-92年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1)〕。 天文15年(1546年)、主君・上杉朝定が北条氏康との決戦である河越夜戦で討死を遂げ、扇谷上杉氏が滅亡する事態となった。資正は松山城を退いて、横瀬氏支配下の上野新田に逼塞する。天文16年(1547年)9月、北条氏の隙を突いて松山城を急襲して奪回。同年10月に兄が死去すると、12月に当主不在の岩付城を攻め、実力で家督を継いだが、親北条派の一部の家臣が離脱して北条氏に走ったといわれる。しばらくして、すぐに北条側が巻き返し、松山城を任せていた上田朝直は北条氏に寝返り、岩付城も囲まれたため、天文17年(1548年)1月に北条氏に降った。その後、天文23年(1554年)4月に父も用いていた受領名である美濃守を名乗っている。 この頃、相模北条氏は甲斐武田氏、駿河今川氏と三国同盟を結び、北関東では北条氏と越後上杉氏との抗争が展開されていたが、資正は北条家臣として、主に常陸国方面で戦った他、横瀬氏や白河結城氏・伊達氏などとの間で北条氏の取次を務めている。また、北条氏康も資正が名門太田家の末裔である事に配慮して、名目上は古河公方・足利義氏の家臣として処遇し、資正の嫡男・氏資と自分の娘との婚約を行った。しかし永禄3年(1560年)、越後国の上杉謙信が大軍を率いて関東に侵攻してくると(小田原城の戦い)、12月には資正もこれに応じて〔黒田基樹は、資正の離反の背景には横瀬氏との関係を推測し、北条氏康・足利義氏は揃って翻意を促していることを指摘している(黒田、2013年、P30-31)。〕上杉軍の先鋒を務めるなど、北条氏から明確に離反・敵対するようになる。これに対し、氏康は資正に対する報復のため、何度も武蔵岩付城、松山城に攻め寄せた〔『甲陽軍鑑』によると、資正は軍用犬を飼いならして活用しており。城に訓練させた犬を数匹飼い、敵が攻め寄せてきた場合には書状を入れた竹筒を犬の首に結び付けて城外に放ち、味方と連絡を取り合い、北条勢を撃退していたとする逸話を記している。資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」として知られており、北条側が配下の風魔一党に命じて人間の使者を捕殺しても、犬の使者までは完全に捕殺できず、常にその軍事行動が太田側に筒抜けになり、「資正は曽祖父・道灌に劣らない名将ぶりを見せた」と人々も褒め称えたという。また、『関八州古戦録』によると三楽犬の密書は「白文の陰書」と呼ばれる、水に漬ける事で文字が浮かび上がる書状であったとも伝わる。()〕。なお、上杉氏傘下の時期においても、里見氏や那須氏との間で取次を務めている。一方で永禄6年(1563年)7月2日には朝廷より民部大輔に任じられており。これは北条氏による懐柔策とする説ともいわれているが、資正の姿勢が変わることはなかった。 ところが永禄7年(1564年)、同盟相手の里見氏と共に第二次国府台合戦にて北条氏と戦うが敗北し、一旦里見軍とともに上総国に落ち延びるが、5月には上総の酒井胤治の支援で岩付城に帰還した。ところが、7月になって資正が極秘に里見氏を訪問して支援を求めようとしたところ、親北条派であった子の氏資が父の側室である大石氏やその所生である弟の梶原政景らを幽閉して岩付城を占拠して北条氏に降伏、資正はそのまま岩付城を追放されることになった。資正はやむなく娘婿の成田氏長を頼り、更に横瀬成繁とも図って翌永禄8年(1565年)5月には岩付城奪還を図るが失敗、この間に出家して「三楽斎道誉」と称した。やがて、資正は下野宇都宮氏を頼り、程無く常陸国の佐竹義重を頼り、その配下となった。その後、義重が親北条氏の小田天庵を破って片野城を奪うと、資正はその城主に任ぜられた。資正は脱出に成功した政景や大石氏と合流する〔岩付城に幽閉されていた政景は脱出して宇都宮氏の下にいた父とともに佐竹氏を頼ると、家臣に命じて小田原に送られていた生母・大石氏を救いだした(『異本小田原記』)。なお、三戸氏に嫁いでいた資正の妹「としやう」や成田氏長の北条氏従属に伴って離縁された資正の娘も合流したとみられる。一方、正室であった難波田氏は自分の子である氏資に従っている(黒田、2013年、P26-28)。〕と、ここを拠点に北条氏と戦い続けるとともに 真壁久幹と結んで佐竹氏の勢力拡大に協力することになる。柿岡城は元々真壁氏の城であったが、久幹の婿になった梶原政景に譲られ、片野城とともに資正の拠点となった。上杉謙信や武田信玄は佐竹氏への取次を資正に依頼するようになるが、反面謙信は本来上杉氏の家臣である資正の佐竹氏への傾斜に不満を抱くようになった。 永禄12年(1569年)に三国同盟の崩壊し北条氏は甲斐武田氏と敵対すると越後上杉氏との同盟を締結(越相同盟)した。この北条と上杉の同盟は関東国衆に動揺を与え、資正は謙信に対し同盟締結の反対を意見している。同盟の協議の中で、資正の処遇問題も重要な課題として浮上し、先の三船山の戦いで戦死した氏資に代わって資正を岩付城に入れる代わりに資正が佐竹氏と縁を切って片野城など常陸の所領を放棄することが北条・上杉双方から求められた。だが、大田資正と上田朝直の間で争われていた松山城の処理について合意がまとまらず、更に常陸の所領も岩付同様に保証されることを求めた資正は佐竹義重とともにこれに反発した。10月には関東出兵する謙信から資正に対して上野国への出兵と同時に片野城を放棄して二度と帰還しないことを命じられ、翌月にも同様の命令が出された。だが、資正はこれを無視して12月には佐竹義重・真壁久幹とともに手這坂の戦いで北条方の小田天庵を破って更に本拠の小田城を占領して資正の支配下に置いた。関東出兵への資正の非協力に対する謙信の不満と片野城・柿岡城の放棄を命じる謙信の命令に対する資正の不満が決定的な亀裂を生み、元亀元年(1570年)3月に謙信は「美濃守の心中見限り候……今日までは頼もしく思い候つるが、此の末は覚悟知らず候」(上杉神社文書・謙信公御書)という書簡を資正に送って絶交してしまう。その後、謙信はこれを後悔し、資正への取次であった山吉豊守・河田長親を介して和解を図り、元亀3年(1572年)8月までには両者の交渉は再開されているが、佐竹氏を含めた最終的な和解は小山氏が北条氏に攻められて佐竹・上杉両氏が救援を本格化させた天正3年(1575年)8月のことであった。この年のうちに実現した両氏に里見氏を加えた関係修復と同盟締結には資正の奔走があった。一方、この頃から資正は織田信長とも連絡を持ち、天正6年(1578年)に上杉景勝から謙信の死去が資正に報じられると、資正はそれを織田信長に知らせている。ところが、本能寺の変の混乱下で北条氏と佐竹氏の争いが深刻化し、天正12年(1584年)5月に沼尻の合戦が発生すると、その最中の6月に突然資正の次男である梶原政景が北条氏に通じて佐竹氏に叛旗を翻した。だが、7月に和議が結ばれると、佐竹義重は梶原政景討伐に乗り出し、10月に政景は義重に降伏したが長年の功績から不問に付された。だが、この件をきっかけに資正は三男である資武を後継者とし、天正16年(1588年)頃には資武が太田氏の家督を継いでいる。 天正18年(1590年)、西日本を完全に制圧し、名実ともに天下人となりつつあった豊臣秀吉の小田原征伐の際、資正は小田原に参陣して秀吉に謁見した。しかし、故地である岩付に戻ることは叶わず、天正19年(1591年)に病死した。 資正は片野城を三男の太田資武に譲った。資武は後に結城秀康に仕えて子孫〔資武-太田資信-太田資親-太田尹資-太田延資〕は福井藩の家臣となるが、資武の曾孫の尹資の代に浪人した上、実子に先立たれたことによって公式には断絶している〔なお、「専宗寺文書」には尹資の子・延資には僧侶になった子・太田浄貞がおり、その末裔とする僧侶による由緒書が収められている。〕。尹資所有の太田氏関連文書は慈明寺に嫁いだ娘に譲られ、更に同寺とつながりの深い専宗寺に渡って現存している(「専宗寺文書」)〔新井浩文「東大阪市専宗寺所蔵〈岩付太田氏関係文書〉について」(初出:『埼玉県立文書館紀要』第16号(2003年)/改題所収:「岩付太田氏関係文書とその伝来過程」新井『関東の戦国期領主と流通』(2011年、岩田書院)) 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田資正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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