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太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、京都府出身の産婦人科医。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊具である「太田リング」を考案した〔平等文博「太田典禮:その生と性と死をめぐる闘い1」『大阪経大論集』2003年、53巻、5号、p163 。〕。 == 略歴 == 学生時代に、産児制限の推進者であるマーガレット・サンガーの思想を知り、以後避妊や人工妊娠中絶の運動を行ってゆく。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で京都全府区から立候補するが、落選。その後日本社会党に移籍し、1947年、第23回衆議院議員総選挙で京都2区から社会党公認で立候補し、当選。その後、加藤シヅエらとともに「優生保護法」(1948年施行、現・母体保護法)の制定に尽力した。その後労働者農民党に参加するが、1949年、第24回衆議院議員総選挙で落選。1962年、第6回参議院議員通常選挙に、京都府選挙区から無所属で立候補するが落選し、政界を引退した。 また、日本の安楽死運動の第一人者としても知られる。1976年1月には、植松正らとともに「安楽死協会」を発足させる。同年6月には「日本安楽死協会」と改称、初代理事長に就任する。 しかし、太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」〔『思想の科学』85号〕と主張し、安楽死からさらに進めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」〔太田『安楽死のすすめ』p158〕と主張した。また、『週刊朝日』1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」〔『週刊朝日』1972年10月27日号 「安楽死させられる側の声にならない声」〕と放言した。 太田のこうした言動から、安楽死が老人など社会的弱者の切り捨てや、障害者の抹殺につながるとして非難が起こった〔三井美奈『安楽死のできる国』(新潮新書、2003)p178-180、福本博文『リビング・ウィルと尊厳死』(集英社新書、2002)p144-149〕。太田はこうした批判に対して見当違いと反発したが、1983年8月には団体名を「日本尊厳死協会」に変更した。太田は「尊厳死」の用語を批判していたが〔大谷いづみ 太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸―― 〕、にもかかわらず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたのが狙いと言われている〔三井美奈『安楽死のできる国』p179、福本博文『リビング・ウィルと尊厳死』p152〕。 晩年は体調を崩し、療養生活を送る。1985年12月5日急逝。享年85〔平等文博「太田典禮:その生と性と死をめぐる闘い1」『大阪経大論集』2003年、53巻、5号、p163-183 。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田典礼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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