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太田 忠(おおた ただし、1901年8月29日 - 没年不明〔『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』132ページ。〕)は、日本の作曲家、ピアニスト。 == 経歴 == 東京に生まれた。8歳からオルガンに親しみ、15歳からピアノと作曲を学んだ。 1919年に商業学校を卒業した後、歌曲と童謡を数多く作曲し、1924年にはピアノ練習曲を約30曲書いた〔富樫、95ページ。〕。 1927年に、管弦楽曲の作曲を志し、同年、新交響楽団にピアニストとして入団した。後にコロナ・オーケストラを経てP.C.L.管弦楽団へ移籍した〔富樫、95ページ。〕。 1930年、新興作曲家連盟に参加し、伊藤昇の《黄昏の単調》の演奏に加わる一方、ピアノ曲《ピエース》や歌曲《少女の子守唄》を発表した〔『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』132ページ。〕。 1934年、清瀬保二、伊藤昇、江藤輝、石井五郎、中井俊二らと『新音楽派』を結成し、無調、微分音的作風を追究。ピアノ曲《都会の構成》で注目を浴びた〔『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』132ページ。〕。1936年に発表したピアノ曲《交通標識》はアレクサンドル・チェレプニンに高く評価され、チェレプニンの手により演奏、録音、出版された〔富樫、95ページ。〕。 1937年に東宝映画の音楽監督となるが、1941年に退社した〔同上。〕。また、1940年にはJOAKの委嘱により、国民詩曲として《狂詩曲第一》を提出した〔同上。〕。 1943年春以降、満州国の新京音楽団の専属作曲家として1年滞在し、満州音楽の調査、採譜、研究を行い、管弦楽曲《牡丹江組曲》を作曲し、満映にて劇映画3本、文化映画3本の音楽を担当し、蒙古に関する貴重な記録を残したが、これらは戦災で焼失した〔同上。〕。 1945年に帰国し、東宝管弦楽団のピアノ奏者を経て、日本劇場の振り付けピアノ奏者を務め、バレエ音楽を手がけた。なお、日本劇場在籍後の消息は不明である〔『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』132ページ。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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