翻訳と辞書
Words near each other
・ 太田正男
・ 太田正男 (プロ野球審判員)
・ 太田正道
・ 太田正雄
・ 太田武
・ 太田武男
・ 太田母斑
・ 太田氏
・ 太田氏房
・ 太田氏資
太田水穂
・ 太田永厳
・ 太田池
・ 太田治
・ 太田治子
・ 太田泰人
・ 太田泰治
・ 太田浜駅
・ 太田浩一
・ 太田浩二


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

太田水穂 : ミニ英和和英辞書
太田水穂[おおた みずほ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ほ]
 【名詞】 1. ear (of plant) 2. head (of plant) 

太田水穂 : ウィキペディア日本語版
太田水穂[おおた みずほ]
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、日本歌人国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。
== 生涯 ==
長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に生まれる。長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。同級生に島木赤彦がいる。卒業後、松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)の教師となる。その後、和田小学校校長に赴任する。この頃、窪田空穂と親交を持つようになり、空穂らと和歌同好会「この花会」を結成。1902年明治35年)歌集『つゆ艸』を発表。1905年(明治38年)には赤彦と「山上湖上」を刊行。1907年(明治40年)には信濃毎日新聞の歌壇選者となる。
1908年(明治41年)上京。日本歯科医専(現・日本歯科大学)の倫理科教授となる。1909年(明治42年)同郷出身で「この花会」会員であった四賀光子と結婚。妻とともに教職の傍ら和歌を詠んだ。この頃、親族の太田喜志子が寄宿しており、水穂宅を訪れた若山牧水と知り合い、後に結婚することとなった。1915年大正4年)歌誌『潮音』を創刊、主宰となる。歌論や古典研究にも力を注いだ。1920年(大正9年)阿部次郎安倍能成幸田露伴小宮豊隆和辻哲郎などと「芭蕉研究会」を結成。松尾芭蕉の文芸を短歌の世界に取り込んだ。これを批判した斎藤茂吉との間に「病雁論争」が起こり激しい対立を招いた。
1934年昭和9年)神奈川県鎌倉市扇ガ谷に山荘を構える。1939年(昭和14年)一家で鎌倉に移住し、以後はここを中心に創作活動を行い古典研究に傾倒し始める。1940年(昭和15年)、名誉会員として所属していた「大日本歌人協会」の解散勧告を斎藤瀏吉植庄亮と連名で出し、以後は大政翼賛へとなだれ込む。1945年(昭和20年)故郷に疎開。1948年(昭和28年)、日本芸術院会員に選ばれる。1955年(昭和30年)死去。享年79。北鎌倉の東慶寺に葬られる。法号は潮音院杳荘水穂居士。
養嗣子に兄・嘉曾次の三男・兵三郎を迎えた。後の歌人で漢文学者の太田青丘である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太田水穂」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.