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太田 源五郎(おおた げんごろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏の家臣。武蔵国岩付城城主。実名は不詳。幼名は国増丸〔。北条氏政の子。太田氏房と同一人物と考えられてきたが実際には別人で、現在は氏房の兄にあたる人物と考えられている。弟の氏房よりも先に太田氏資の娘婿として太田氏の家督を継いだとされている。なお、「源五郎」は歴代の岩付太田氏当主の名乗りであるが、本項ではこの人物の呼称として用いるものとする。 == 生涯 == 生年に関しては永禄7年(1564年)とも永禄8年(1565年)ともいわれる〔黒田基樹『戦国北条氏五代』P166〕。 永禄10年(1567年)、岩付城主・太田氏資が三船山合戦で里見義弘に討たれて戦死したが、氏資には男子がおらず、北条氏康の娘との間に生まれた女子がいるのみであった。これに対して北条氏では、同氏が直接太田輝資(江戸太田一族)や宮城政業ら太田氏の一族・家臣を指揮する形で岩付領を統治していたが、氏資に追放されて常陸佐竹氏を頼っていた氏資の実父太田三楽斎が旧領奪還を図って出兵する可能性もあった。そこで、氏資の娘を北条一族の然るべき人物に娶わせて太田氏の婿養子として家督を継承させる方策を採ろうとした。 永禄12年(1569年)に北条氏康と上杉謙信の間で越相同盟が結ばれた折に、国増丸を謙信の養子にする提案が議論されながら白紙にされている(結果的に氏康の子とされる北条三郎{上杉景虎、名は氏秀とも}が養子となった)事からこの頃に国増丸の太田氏入嗣の計画があったとも言われている。 天正3年(1575年)頃、実父・氏政の後見を受ける形で岩付に入った国増丸は2年後に太田氏当主が代々名乗ったとされる「源五郎」を襲名している。この頃元服を行って氏資の娘と婚姻したと考えられている。婚姻時期に関しては天正3年(1575年)から天正5年(1577年)頃とされる〔。 天正8年(1580年)頃より「太田源五郎」名義で出された独自の文書の発給が見られ、また小田原城城下に広徳寺(現在は東京都練馬区に移転)を建立したりしている事が明らかとなっているが、天正10年(1582年)7月8日に若くして亡くなった〔。 太田氏資の娘との間には子供がいなかったため、天正13年(1585年)頃に改めて弟の氏房が兄の未亡人と再婚してその家督を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田源五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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