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太田 資美(おおた すけよし)は、江戸時代末期の大名。遠江掛川藩第7代藩主。上総松尾藩知事。掛川藩太田家11代。 == 生涯 == 第5代藩主・太田資始の七男(先代藩主・太田資功の四男との説もある)。文久2年(1862年)3月29日、養父資功の死去により、家督を継いだ。わずか8歳であり、資始が補佐したと伝わる。慶応4年(1868年)1月14日、旧幕府から駿府城の守備を命じられる。同年2月1日、駿府城から撤退する。同年3月21日、新政府への恭順の姿勢を示すために上洛し、同年3月26日、参内する。同年4月15日、従五位下備中守に叙任する。同年9月21日、駿河国・遠江国・三河国に徳川家達が移封となったため、上総夷隅郡内に5万3000石余に移封を命じられる。同年11月10日、上総山辺郡内5万3350石へ移封を改めて命じられる。明治2年(1869年)5月16日、「柴山藩(後に松尾藩)」を称することにする。資美は藩校の「教養館」や病院「好生所」などの創設に尽力し、財政政策のため、物産会所を設置し、養蚕を奨励するなど、わずか4年の期間ながら優れた手腕を見せた。 同年6月17日、版籍奉還で知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で知藩事職を免ぜられる。明治9年(1876年)12月、宮中祇候に就任する。明治17年(1884年)、子爵となる。明治期には慶應義塾が外国人教師(クリストファー・カロザースら)を招く際の財的支援や、東京仏学校(法政大学の前身の一つ)の設立に尽力するなど教育・芸術関連に貢献した〔中山良昭『江戸300藩・殿様のその後』朝日新書(2007)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田資美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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