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太田 雄蔵(おおた ゆうぞう、文化4年(1807年) - 安政3年(1856年))は、江戸時代の囲碁棋士。江戸生まれ、安井門下、七段上手。天保四傑と呼ばれる一人。幼名は川原卯之助、後に良輔、その後太田姓を名乗り、雄蔵とした。号は一石庵爛柯。気合いがよく華麗な碁と言われる。本因坊跡目秀策との三十番碁が著名。 ==経歴== 江戸の商家に生まれる。「坐隠談叢」では横山町の商家、「白棋助左衛門手記」では本町の丁字屋という糸屋とされている。幼児から七世安井仙角仙知門下で学び、3歳下の安井算知 (俊哲)と競い合う。また八世安井知得仙知の二女を妻とした。天保4年(1833年)から8年にかけて、名古屋、京都、大阪、九州各地へ対局のために遠征。少年時代からこの時までの棋譜は、天保10年(1839年)から12年に『西征手談(上下巻)』として刊行した。天保9年(1838年)に六段。天保14年(1843年)に、既に七段であった本因坊跡目秀和との先合先白番でジゴとした碁は佳作として知られる。 嘉永元年(1848年)に、伊藤松和、林柏栄門入とともに七段に進む。七段になると剃髪して御城碁を勤め、扶持を受けるのが当時の通例であり、棋士の目標であったが、美男子であった雄蔵は剃髪を嫌ったとされ(「坐隠談叢」)、御城碁には出仕しないという異例の昇段となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田雄蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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