翻訳と辞書
Words near each other
・ 太郎次郎社
・ 太郎次郎社エディタス
・ 太郎焼亡
・ 太郎生村
・ 太郎笈
・ 太部古天神社
・ 太部神社
・ 太鐘守
・ 太閤
・ 太閤の湯殿館
太閤ヶ平
・ 太閤丸豊
・ 太閤出世餅
・ 太閤名人
・ 太閤園
・ 太閤将棋
・ 太閤山
・ 太閤山ニュータウン
・ 太閤山ランド
・ 太閤山住宅団地


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

太閤ヶ平 : ミニ英和和英辞書
太閤ヶ平[たいこうがなる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

太閤 : [たいこう]
 【名詞】 1. Toyotomi Hideyoshi 2. father of the Imperial adviser (advisor)
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

太閤ヶ平 : ウィキペディア日本語版
太閤ヶ平[たいこうがなる]
太閤ヶ平(たいこうがなる)は鳥取県鳥取市百谷字太閤ヶ平にある戦国時代の付城(前線基地)。天正9年(1581年)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による第二次鳥取城攻撃の際に造営された。1957年昭和32)秀吉の陣城跡は鳥取城と並び国の史跡に指定されている。
== 歴史 ==
:織田信長の命を受けて中国経営に邁進する羽柴秀吉は、一度支配下に入れておきながら再び毛利氏側に立った因幡国鳥取城の攻略を決意し、1581年天正9)6月25日に3万の大軍を率いて居城・姫路城を進発した。7月12日には早くも鳥取城の包囲陣が完成している。対する鳥取城には毛利氏から派遣された勇将・吉川経家が、2千の将兵とともに守りを固めていた。
:秀吉は標高263mの鳥取城の東方・標高251mの帝釈山上に本陣を構えた。羽柴秀長(のちの豊臣秀長)を初めとする配下の諸将たちが、毛利方の鳥取城・雁金山城丸山城の3つの出城を楕円状に取り巻いて、山嶺から城下まで延長12kmにおよぶ長囲の陣を敷いた。秀吉軍は完全包囲によって城内の糧食を断つ持久戦の構えを取るとともに、毛利方の援軍を予測し、毛利方主力との決戦も想定した配陣となっている。
:
*これまで、羽柴秀吉は鳥取城攻撃にあたって、若狭国の商人を使って因幡国内の米を高値で買い集めたことで、鳥取城に対する経済封鎖を行ったとされてきた。近年になって、織田軍は次に述べるような3重の厳重な包囲網で鳥取城に対する経済封鎖を行っていたことが明らかになった。これは鳥取城に対する数年がかりで構築した大規模な経済封鎖だった〔『織田vs毛利-鳥取をめぐる攻防-』 鳥取県 総務部 総務課 県史編纂室 平成19年6月17日〕。
:# 本項で述べる太閤ヶ平を中心とした包囲網。
:# 毛利方に属していた、賀露港・二上山城雨滝七曲城市場城生山城船岡城景石城若桜鬼ヶ城弓河内城鹿野城を攻略したことによる、因幡国一円に及ぶ包囲網。
:# 毛利方に属していた東伯耆南条元続、南美作を支配していた宇喜多直家を調略したことによる、中国地方の東半分に及ぶ包囲網。
:攻城戦は4か月に及んだ。織田方の巧みな経済封鎖によって食糧の不足していた鳥取城内では、籠城2か月目にして早くも食糧は尽き、牛馬や壁土、果ては餓死者の人肉まで奪い合うという飢餓地獄が現出した。城将・吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で10月25日に城下の真教寺で自刃、鳥取城は開城し包囲陣は解かれた。
:鳥取城を落とした秀吉は、城将として宮部継潤を入れ、次いで伯耆国に進み、馬の山まで進攻していた吉川元春と対陣している。しかし冬を迎えるとともに、毛利方の装備が十分なことを知った秀吉は急遽撤兵、11月8日に姫路に帰城している。その後、秀吉が因伯の地を訪れることはなかった。秀吉が築いた陣城群は、江戸中期頃まで軍事施設として認識されており、藩政期の鳥取城絵図にもその旨の記載が残っている。
:秀吉の本陣が置かれた帝釈山は「本陣山」と呼ばれるようになり、現在はハイキングコースが設けられている。また本陣跡裏手の広場には、マイクロウェーブの中継所がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太閤ヶ平」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.