|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 夷 : [えびす, い] 【名詞】 1. barbarian 2. savage 3. Ainu ・ 俘 : [ふ] 【名詞】 1. (1) captive 2. prisoner 3. (2) victim 4. slave
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)という。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。 == 移配俘囚 == 移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。移住先は九州までの全国におよぶ。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。 俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた(→国衙軍制)。俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えた。例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。 しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになった。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられているが、こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「俘囚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|