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奈勿尼師今(なこつ にしきん、生年不詳 - 402年)は、新羅の第17代の王(在位:356年 - 402年)であり、姓は金氏。『三国史記』に拠れば、分注に別名として那密(尼師今)を伝え、第13代味鄒尼師今の甥(父は仇道葛文王の子の末仇角干(1等官の別名)、母は金氏休礼夫人)であり、王妃は味鄒尼師今の娘の保反夫人とする。『三国遺事』王暦では奈勿麻立干〔『三国史記』に拠れば麻立干の号は19代訥祇麻立干からのこととするが、『三国遺事』では奈勿尼師今から麻立干の号を用いたように記している。『太平御覧』に見られる「新羅王楼寒」の表記のうち「楼寒」は麻立干に相当するもの(省略形)であり、奈勿尼師今の時代から王号が麻立干に変化していき、訥祇麻立干の時代になって定着したものと考えられている。〕と記され、味鄒尼師今の弟とし、一説で味鄒尼師今の甥と伝える。 先代の訖解尼師今が356年4月に子の無いまま死去したため、奈勿尼師今が王位を継いだ。以後、53代の神徳王(在位:912年 - 917年)が現れるまで、新羅の王統は金氏で占められることとなる。 ==治世== 高句麗に従属しながら百済・倭への対抗に努め、独力で中国(前秦)に朝貢を果たすなどして、はじめて「新羅」として国際的な舞台に登場した。 364年4月に倭の侵入を受け、とても敵わないと恐れたが、数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山の麓に並べ、一方で勇士1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、進撃してきた倭軍に不意討ちをかけて敗走させた。元々新羅は高句麗の臣民であったが、391年倭が海を渡って百済や新羅を破って倭の臣民としている。393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲され籠城戦を余儀なくされたが、倭軍が退却しようとしたところを騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。399年にも倭の侵攻を受ける。倭軍が国境に満ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。翌400年になると金城が倭軍に占領されるが、救援の高句麗軍が迫ると倭軍は任那加羅に撤退し窮地を脱した。 その間、百済の近肖古王からは366年、368年に使者を受け入れており(羅済同盟)、373年には百済の禿山城(京畿道安城市)の城主が領民300を率いて投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答え、百済は何も言ってこなくなったという。 高句麗からは392年正月に使者を送ってきたが、国力の盛んなことを恐れ、王族である伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として送り込んだ。 中国に対しては、377年に高句麗に随伴して前秦に朝貢をしており、382年には前秦に対して衛頭を送って、新羅単独での朝貢を行った〔前秦への朝貢について377年及び382年とするのは『太平御覧』の記年に従う。同書の記事を参考にしたと見られる『三国史記』新羅本紀では、単独朝貢を奈勿尼師今の26年(381年)のこととしているが、377年の朝貢記事を記していない。〕。このときの様子は『太平御覧』が引用する『秦書』(逸書)に記されており、新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告した、としている。 在位47年にして402年2月に死去した。この年、子の未斯欣が倭に人質として送られることとなる。『三国遺事』に拠れば、占星台の西南に陵があるという。また、王陵は慶州市校洞の史跡第188号が比定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奈勿尼師今」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Naemul of Silla 」があります。 スポンサード リンク
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