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奈良原 繁(ならはら しげる、天保5年5月23日(1834年6月29日) - 大正7年(1918年)8月13日)は、日本の武士、官僚である。静岡県令、沖縄県知事(第4代)、貴族院議員、元老院議官、錦鶏間祗候、日本鉄道会社(のち甲武鉄道会社、両毛鉄道会社、水戸鉄道社長兼任)の社長など。男爵。 == 来歴 == 薩摩藩出身。諱は混。幼名は三次。通称喜八郎。名乗りは幸五郎だが、明治7年(1874年)の島津家家令となったあたりから繁と改める。兄・喜左衛門は、熱心な薬丸自顕流の門弟であるが、繁は鎗の使い手として知られた。文久2年(1862年)の島津久光の卒兵上京に従い、寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍。その年の生麦事件では、リチャードソンに斬りつけたのは、兄の喜左衛門ではなく、弟の繁であると子孫から異議が申したてられている〔実際、当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡(横田達雄編『青山文庫所蔵資料集1 那須信吾書簡一』収録)は、喜左衛門ではなく弟の喜八郎としている。また喜八郎(繁)の孫の一人は、綱淵謙錠との対談ではやり喜八郎が斬ったとし、さらに喜佐衛門を介錯したのも喜八郎であるとしている。〕。 翌年の八月十八日の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。薩英戦争には、兄の喜左衛門が加わっているが、弟の繁は加わっていない。 西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、明治2年(1869年)2月に戊辰戦争より帰国した下級藩士たちより起った藩政改革のため、側役まで出世した藩政から退けられる。明治4年(1871年)12月、沖縄特使として鹿児島県へ出仕。明治7年(1874年)2月、島津忠義家(本家)家令となる。明治9年(1876年)9月、玉里家の家令も兼ねる。明治12年(1879年)に内務権大書記官、明治14年(1881年)に農商務権大書記官、明治16年(1883年)に静岡県令。明治17年(1884年)には日本鉄道社長に就任した。明治23年(1890年)9月に貴族院勅選議員に任じられ同25年(1892年)5月まで在任〔参考文献『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』145頁。〕。 明治25年(1892年)に沖縄県知事に就任するが、杣山問題(農民が管理をしていた山林を騙し取る事件)により謝花昇らと対立を深め、謝花の組織した沖縄倶楽部への弾圧を行うなどの強権を以て県政に臨み、また官選知事としては異例の16年にわたって在任し「琉球王」の異名をとった。沖縄土地整理法の成立に伴い、県内の土地整理事業を行う。沖縄県私立教育会総裁なども務めた。 人頭税などの旧慣温存策の姿勢を緩めなかったため、当時の農民や貧しい武士は、苦しい生活を強いられた。 明治40年(1907年)12月10日、貴族院勅選議員に再度任じられ〔『官報』第7337号、明治40年12月11日。〕、死去するまで在任した。明治41年(1908年)7月1日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第7504号、明治41年7月2日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奈良原繁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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