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奥並継 : ミニ英和和英辞書
奥並継[おく なみつぐ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
: [へい]
 【名詞】 1. line-up 2. in a row 3. rank with 4. rival 5. equal

奥並継 : ウィキペディア日本語版
奥並継[おく なみつぐ]

奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年12月 - 明治27年(1894年2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。〔君の名は並継、字は子紹、菱池と号す。『大分県史料(23)第八部二』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)〕
==略歴==

豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれたが、宇佐神宮詞官奥氏を嗣ぎ、嘉永5年(1852)宇佐神宮官人代対馬守に任じられ、従五位下に叙せられた。〔『大分県史料(23)第八部二』菱池遺稿・(『菱池奥君墓碑銘」重野安繹繹撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)『大分県史料(29)13』八幡宇佐宮神官次第p341〕
学問は12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学び、安政二年(1855)江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。〔『同上』菱池遺稿・(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)〕
文久3年(1863年)飄然して京都に出遊し、憂国の志士と交わりこれから国事疾走の生活が始まる。その頃長州藩は朝廷に罪を得ていた為に、並継は西郷隆盛中村半次郎ら薩摩の士と善くしていたので、土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎らと共に両藩の調停をはかり、効を奏した。、丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の二豊の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、三年を経て即位の大赦により出獄した。〔(『同上』菱池遺稿・(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)〕
明治政府は明治3年(1870年)神祇少史に任じられ、権大史に遷り、陸軍省(佐賀の乱及び台湾出兵に従軍)、東京府、開拓使官吏(屯田兵の長として西南戦争に参加、のち明治15年(1882年)開拓使廃止まで開拓事業推進に従事)、大蔵省(開拓会計残務整理委員)、修史局四等編修官(北海道史及びアイヌ研究の著書をまとめる)を歴任し、正七位に叙せられ、明治19年(1886年)に官吏を勇退。退官後は菱池翁とよばれ、斯文学会幹事。大日本中学会を創設し、自ら会長。また「東発」という義塾を創設し、熱心に青少年を教育した。明治27年(1894年)2月26日、71歳で逝去。城北谷中天王寺に葬られた。〔(同上』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安譯撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)(「先考行述)奥豊彦著)『宇佐郡誌』(編纂兼発行・宇佐教育会P171)『大宇佐郡史論』(19)奥並継、編者小野精一、宇佐市役所p746p747)〕
             
    悼菱池翁                  落合直文
北の海 南の島に今もなほ 君がみたまはゆきかえるらん
*奥並継の墓碑銘、「菱池奥君墓碑銘」東大教授文学博士重野安譯の撰
君名並継。字子紹。號菱池。本姓藤波氏。幼承宇佐祠官奥氏後。及長襲職。任對馬守。叙従五位下。方幕府末造。国家多虞。君慨然憂之。遊京師。結交志士。密議時事。長藩得罪朝廷。與薩藩交悪。君素與西郷隆盛桐野利秋等善。居間圖調停。事竟解。既歸郷。志士往来二豐間者。訪問相踵。幕吏疑其有異謀。収君及弟重明。下獄於日田三年。王室中興。寃始得白。明治三年任神祇少史。遷權大史。歴官陸軍省東京府開拓使大蔵省。進修史局編修官。叙正七位。君年十二入廣瀬淡窓門。後従遊帆足萬里。在江戸平田篤胤国學。興郷校於宇佐子弟。晩年罷官。爲斯文學會幹事。又創大日本中學會。設義塾東發。二豐子弟負笈東京者皆依焉。君提撕誘掖。毫無倦色。爲人廉潔淳正。與人不城府。有來依託者。竭力庇助。必得其所而後已。状貌豐肥。性嗜酒。醉則賦詩詠歌。逌然自適。又好筆礼。至老益篤。有於晋唐書法。廿七年二月廿六日歿。年七十一。葬谷中天王寺兆城。配渡邊氏。子女各三。長子某夭。次豐彦嗣。長女適末広嚴石。餘夭。豐彦裒輯君遺文若干巻。曰菱池遺稿。藏于家。他蝦夷風俗彝纂。開拓使事務報告。各若干巻。奉使廰命撰。君本生考諱榮順。妣並松氏。生二子。長即君。次重明。嗣時枝氏。先世爲宇佐彌勒寺堂司。奉祀宇佐神祠。至考家衰。發憤經紀。遂饒于財。慨神祠毀壊歳久。常有復舊之志。因納資。使君嗣奥氏。君至江戸。請幕府繕之。淹留四歳得允。輸奐之美。有於往昔。善繼紹志業。可名字矣。中興前後。起身詞官。慷漑憂国者。世不其人。然志過於憤一レ時。行専於守一レ舊。往々流入詭激。君則和平篤厚。怡然自得。能以文學終始。而憂国之念。未嘗忘乎懐。中行令終。有於世流焉。豐彦撰状。問銘於予。予與君交善。誼不辭。據状次第。掲之於石。銘曰。
面如棗 鬚似銀 其気和 其貌温 善接人 克事神 神攸祐 壽全身 佳城爵 爰妥魂 徳無忘 銘不
 明治卅一年歳在戊戌第一月
 正四位文學博士 重野安繹 撰〔『大分県史料(23)第八部先賢資料二』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹撰p117p118』〕
*『菱池遺稿』奥並継著の解題、「奥並継とその遺稿」大分県立芸術短期大学名誉教授文学博士中野幡能
奥並継は字を子紹、号を菱池といった(菱池は宇佐神宮境内地の池名である)豊前宇佐の藤波氏に生まれたが、宇佐宮祠官奥氏を継いだのである。年十二にして広瀬淡窓の入り後帆足万里に学んだ。安政二年(一八五五)江戸に出て平田篤胤の門に入り、国学を修めた。その後一旦郷里豊前宇佐に帰り、祠職を襲ぎ宇佐神宮に奉仕した。傍ら吉成明正等と謀り郷校を建て子弟を教育した。しかしそれのみではあきたらず、文久三年(一八六三)飄然して京都に出遊し、憂国の志士と交わりこれから国事疾走の生活が始る。その頃長州藩は朝廷に罪を得ていた為に並継は西郷隆盛、桐野利秋等薩摩の士と善くしたので土藩の坂本中岡等と共に両藩の調停をはかり、効を奏した。丁度七卿落ちとなり勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し故国に帰り、二豊の志士等と語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、三年を経て即位の大赦により出獄した。
出獄の後明治三年神祇少史に任じ、権大史に遷り、陸軍省、大蔵省等に歴任明治十五年修史局編集官となり、明治十九年辞職したが斯文会幹事になったり、大日本中学会会長として育英事業に尽力した。明治二十七年七十一歳にて東京で客死した。
著書に菱池遺稿がある。上下二巻に分れ、上巻には伊東竹園の序文及び重野安繹の墓碑銘を始めとして、菱池の書き与えた、書、序文、袚文、墓碑銘等が収められ、下巻には菱池の詩集が収められている。これ等のものは詩文の道から別としても、何れも幕末の青年学徒が国学を学び、儒学更に洋学を学びとって、新しい国造りに役立たせようとしている。近代日本の揺籃期を物語る烈々たる気概が示されて興味深いものがある。(中野幡能)〔『同上』菱池遺稿・ (解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)〕 
*『菱池遺稿』奥並継著の「序」伊東茂右衛門

奥菱池翁小時學萬里帆足先生。先生之學。以道徳濟世主。不使子弟弄詩文以求上レ名。翁常守其訓。故其詩文與尋常作者其撰矣。頃日令嗣豐彦。携遺稿来示余。余受而觀之。關世教者多。葢其學風使然爾。翁嘗在官。編纂開拓事業報告蝦夷風俗等數百巻。其専力於濟世實用者可知焉。如此遺稿則其緒餘也已。余能知翁半生。故辦一言于巻首。以諗讀者云。
  己亥二月    竹園(山)  伊東茂右衛門識〔『同上』菱池遺稿・(「序」竹園 伊東茂右衛門識)〕                                                         

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「奥並継」の詳細全文を読む




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