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奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる。 == 解説 == 陸奥国は大和朝廷の勢力圏の北端に位置していた為、時代によりその範囲は大幅に異なる(詳細は陸奥国を参照)。平安時代に入るまで、大和朝廷が実効支配していたのはほぼ現在の福島県、宮城県の範囲であったが、坂上田村麻呂を指揮官とする朝廷軍の侵攻により、9世紀初頭には大和朝廷の勢力は現在の岩手県に到達し、802年に鎮守府が胆沢城に移される。その後、大和朝廷の勢力は順次北上し、10世紀半ばに岩手郡が成立して奥六郡が完成したと考えられている。 11世紀には奥州安倍氏が大和朝廷から「六箇郡の司」と呼ばれる地位を与えられて、この地域に大勢力を築く。しかし安倍氏は河内源氏の源頼義、出羽清原氏との抗争(前九年の役)の後に滅亡し、奥六郡は出羽清原氏に継承される。ところがその20年後、今度は出羽清原氏に内紛が発生し、これに源義家が介入して後三年の役と呼ばれる戦乱が発生。最終的に奥六郡は安倍氏の惣領であった安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る藤原清衡が支配するところとなった。 清衡に始まる奥州藤原氏は、12世紀末、源頼朝と戦って(奥州合戦)滅亡する。 南北朝時代には、源義家の後裔に当たる足利氏が紫波郡(かつては「斯波郡」)に進出、「斯波氏」を名乗りその流れは室町幕府三管領筆頭となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥六郡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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