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奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。 == 概要 == 豊臣秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。 秀吉は、7月17日宇都宮国綱らと共に小田原から下野国に向かい、7月26日宇都宮城に入城、関東、奥羽の大名達も宇都宮へ出頭し、ここで奥羽大名に対する仕置を行った(宇都宮仕置)。 秀吉の宇都宮着陣に先立ち、既に常陸の佐竹義宣、陸奥国北部の南部信直が宇都宮入りしており、7月27日南部信直に対して南部所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を与える〔天正20年(1500)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) なお糠部郡は寛永11年(1634年)に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された〕。 7月28日には小田原にも参陣していた伊達政宗が奥州への迎えの為として宇都宮入りし、8月1日には佐竹義重に対して常陸ほか54万石の所領を安堵している。伊達に関しては、前年に摺上原の戦いで蘆名氏を破り、奥羽に150万石近い大領国を築いていたが、政宗自身が小田原に遅参したことに加え、会津攻めそのものが秀吉の惣無事令に違反していたことなどを理由に、会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封されている。 秀吉は政宗の案内で、その没収した会津を新封となった蒲生氏郷、奉行だった浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍を伴って巡察行軍を行った。秀吉は途中で再び宇都宮に戻ったが、奥州仕置軍は政宗の案内により8月6日に白河に到着、抵抗した葛西氏家臣を退けながら8月9日には会津黒川城(現在の会津若松城)に入る。その後、稗貫氏が城地を追放されたあとの鳥谷ヶ崎(十八ヶ崎)城(後の花巻城)に、奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥州仕置」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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