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奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)は、平安時代後期の永保3年(1083年)から、寛治2年(1088年)にかけての、陸奥・出羽両国にまたがった争乱、いわゆる「後三年の役」、または「義家合戦」と呼ばれるものを描いたものである。実際には永保三年(1083)から寛治元年(1087)の5年間の戦いであったが、「十二年合戦」(前九年合戦の古称)が前九年・後三年の両方を指すとする誤解が鎌倉後期に生じ、前者を9年間(実際には12年間)、後者を3年間(実際には5年間)と振り分ける呼称が成立した〔<野中哲照『後三年記詳注』「解説」、汲古書院、2015年〕。 その成立については、長らく南北朝時代の貞和3年(1347年)とされてきたが、野中哲照は丁寧語「侍り」の用法などから院政初期の成立であることを明らかにした〔<野中哲照『後三年記の成立』、汲古書院、2014年〕。 == 『後三年記』から貞和本『後三年合戦絵詞』を経て『奥州後三年記』へ == 『後三年記』原本は院政初期に平泉藤原氏の初代藤原清衡のもとで成立したとされる〔<野中哲照『後三年記の成立』・汲古書院、2014年〕。そこから承安元年(1171)に後白河上皇のもとで承安本『後三年絵』が制作されたり、貞和三年(1347)に貞和本『後三年合戦絵詞』(画工は飛騨守惟久)がつくられたりした。貞和本は、もと6巻存在したとされ、そのうちの3巻が東京国立博物館に収蔵されている。現存『奥州後三年記』と称する写本・刊本類はすべて東博本の影響下にあるとされ、東博本が最善本であるという〔<野中哲照『後三年記詳注』・汲古書院、2015年〕。近世初期に『奥州後三年記』の名称となり、『群書類従』第二十に収載された。その「序」にはこうある。 序文を書いた玄慧は、天台密教を修めて法印権大僧都となった当時屈指の学僧である。持明院殿の殿上で『論語』を談じて、花園上皇にも認められる。その後も足利尊氏の弟、足利直義の恩顧を受けて、没後には、その文雅を慕って追悼の詩を作る禅僧達もいたと伝えられる。その当時屈指の学僧が、序文を担当していることで、この絵巻がかなりの一大事業であったことが判る。 『実隆公記』永正(1506年)3年11月12日条に、中原康富がその絵を実見したとあって、詞書は源恵(玄慧)法印が草し、詞書筆者は「第一尊円親王、第二公忠公、第三六条中納言有光、第四仲直朝臣、第五保脩朝臣、第六行忠卿」(増補史料大成刊行会編『史料大成』1965年)とある。 中原康富が見たものは、後述する『康富記』により、後白河法皇の承安本『後三年絵』であるので、三条西実隆は承安本『後三年絵』を知らなかったのか、取り違えたのかもしれない。しかし、各巻の詞書筆者は、東京国立博物館蔵の現存『後三年合戦絵詞』各巻末に記された筆者名と見事に一致しているという。このことから、貞和本『後三年合戦絵詞』は、本来6巻であったとされる。 東京国立博物館に収蔵されている貞和本『後三年合戦絵詞』は全6巻のうち3巻に留まるが、群書類従本には冒頭の1巻分が残存しており、合わせて4巻分のストーリーを追うことができる。それでもなお欠けている2巻分の内容については、この『康富記』によって補うことができる(後述)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥州後三年記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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