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奥平 定能(おくだいら さだよし)は、戦国時代の武将。奥三河の国衆で、奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される〔柴(2006)、p.47〕。 ==概要== 奥平氏は奥三河の作手亀山城を本拠とする国衆。戦国期の永正年間には定能の祖父にあたる貞昌の頃から史料に見られ、定能の父定勝の頃には駿河今川氏が三河経略を行い、今川氏との関係を強めている。 定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、幼名仙千代と称していた定能は叔父藤河久兵衛尉とともに医王山砦を攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。叔父の藤河久兵衛尉は直後に今川氏に対して謀反を企て、翌天文17年正月26日付今川義元判物写に拠れば、定能は父定勝により今川氏への忠節の証として吉田へ人質として提出されたという。 弘治2年(1556年)10月頃までには元服し、通称九八郎を名乗る。この頃、菅沼氏など三河国衆の間では親今川派と反今川派の間で内部紛争が起こっており、東三そう劇と呼ばれている。奥平氏でも父定勝が今川氏に臣従しているのに対し、同年春頃に定能は奥平久兵衛尉・彦九郎・与十郎らと今川氏に対して逆心を企て、定勝派の親類衆により高野山へ追われ、その後赦免されたという。 永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、今川氏と松平氏(徳川家康)との間で抗争が激化するが、定能は父定勝とともに今川派として行動している。なお、この頃父の定勝は隠居し、定能への代替わりが行われたと考えられている〔柴(2006)、p.39〕。 永禄7年(1564年)2月、奥平氏は今川氏から離反し、徳川家康に属した〔はじめ今川氏に属し、後には徳川・武田の間で揺れ動いた人物として知られているが、弘治年間には織田信長に転属していたこともあり、同2年(1556年)8月には信長方として三河雨山城にて今川方の菅沼定村と戦い、これを打ち破っている(奥平家譜)〕 。定能は家康から、家康に敵対する牧野氏・大給松平氏の所領である牛久保領・大沼領・大給領など3500貫文と遠江三分の一の知行を宛行われ、受領名美作守を拝領している。 以後、家康の遠江侵攻に従う他、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。 永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。同年11月19日付武田信玄書状写に拠れば、この頃定能と武田氏は接触を行っている。元亀2年(1571年)3月頃には奥平氏は武田氏に従属しており、同年4月に行われた武田氏の三河侵攻では田嶺・長篠菅沼氏(山家三方衆)とともに案内役を務めている。武田氏は織田氏とは友好的関係を築いていたが徳川氏とは遠江領有を巡り緊張関係にあり、元亀4年(1573年)正月に武田氏による徳川領国への侵攻が開始されると、山家三方衆は武田家臣山県昌景に従い従軍している。なお、同年4月には信玄が死去し、武田氏の徳川領国の侵攻は中止されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥平定能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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