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奥澤神社(おくさわじんじゃ)は、東京都世田谷区奥沢にある神社。かつてこの地を領していた吉良氏の家臣、大平氏が室町時代に奥沢城を築城するにあたって世田谷郷東部の守護神として勧請したものと伝えられる〔〔『ふるさと世田谷を語る 尾山台、奥沢』、84-85頁。〕。古くは八幡神社と称し、明治期に近隣の神社を合祀した際に奥澤神社と改称した〔〔『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』、91頁。〕。江戸時代中期から続く大蛇お練り神事は、世田谷区指定無形民俗文化財となっている〔〔。 == 歴史 == 奥澤神社の発祥は、室町時代までさかのぼる〔。奥沢地区近辺は、南北朝時代の貞和年間(1345年-1349年)頃に吉良氏の領地となった〔「貞和」は北朝方が使用した元号である。南朝方の元号では興国6年-正平5年にあたる。〕〔『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』、5頁。〕。奥澤神社は室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えられる〔〔。当初は八幡神社と呼称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢(しちざわ)八八幡(はちはちまん)」の1つに数えられていた〔「世田谷七沢」については、諸説がある。現存の地名では野沢、深沢、奥沢、北沢など、消滅した地名では池沢(池尻の一部)、吉沢(玉川の一部)、馬引沢(上馬、下馬、駒沢などの一部)、廻沢(千歳台付近)などといわれる。「八八幡」には、北沢八幡宮、世田谷八幡宮、代田八幡宮などの名が挙げられている。〕〔〔〔大谷、8頁。〕〔『ふるさと世田谷を語る 尾山台、奥沢』61頁。〕 天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡とともに吉良氏の勢力も衰え、奥沢近辺は徳川氏の直轄領とされて荏原郡世田谷領奥沢村となった〔。寛文2年(1662年)、村の西方が開墾された後に寛文9年(1669年)に検地を受けて「奥沢新田村」(現在の奥沢四丁目から八丁目の付近)が成立し、従来からの奥沢村(現在の奥沢一丁目から三丁目、及び四丁目の東側付近)は「奥沢本村」と呼ばれるようになった〔〔『ふるさと世田谷を語る 尾山台、奥沢』65頁。〕〔『史料に見る江戸時代の世田谷』、129-130頁。〕〔落ち着いた品の良さをイメージさせる街「奥沢」 ダイヤモンド・オンライン、2014年2月11日閲覧。〕。八幡神社は奥沢新田村の鎮守となった〔。文化・文政期(化政文化の時期)に編纂された『新編武蔵風土記稿』巻之五十 荏原郡之十二では「村ノ東ノ方ニアリ。本社三間半ニ一間、拝殿二間ニ三間、前ニ鳥居ヲ建ツ。(中略)祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス。下沼部村密蔵院持(後略)」とあり、下沼部村(現在の大田区田園調布付近)の密蔵院(真言宗智山派、大田区田園調布南24-18に現存)が別当寺を務めていた〔〔。 明治時代に入ると、奥沢一帯は品川県に属することになった〔『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』、13-16頁。〕。続いて明治4年(1871年)には廃藩置県、大区小区制によって「東京府第7大区第6小区」となった〔。1875年(明治8年)3月の『神社明細簿』という資料によると、祭神は応神天皇で「創建年月不詳旧社号八幡大菩薩ト相称候」とあり、前年4月に村社に定められている〔〔『ジャの道は蛇 -藁蛇の祭と信仰』、45-47頁。〕〔『世田谷区神社台帳』、138-148頁。〕。 奥沢本村と奥沢新田村の両村は、1878年(明治11年)の小区制廃止とともに合併して奥沢村となった〔『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』(1985年)14頁には、「明治11年以前には既に合併していたとするものもある」との注釈を付している。〕〔。奥沢村は1889年(明治22年)に尾山村、等々力村、上野毛村、下野毛村、野良田村、瀬田村、用賀村が合併して新たに発足した玉川村の一部となった〔。1909年(明治42年)10月には、旧奥沢本村の子安稲荷神社が合祀されることになり、それを機に「奥澤神社」と名を改めた〔〔〔。昭和期に入る前後に一時神職不在の時期があり、目黒区碑文谷の氷川神社から神主が来ていたという〔。 『新編武蔵風土記稿』巻之五十で言及されていた本殿は、1912年(明治45年)に九品仏浄真寺に移築の上改修されて観音堂となった〔『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』、93-95頁。〕。1913年(大正2年)に建立された本殿も、同じく九品仏浄真寺に移築されて五社として祀られた〔。2回にわたる本殿の移築の経緯は不明とされるが、1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では当時の禰宜の話として「単に置き場所に困っただけではないか」という説を載せている〔。なお、九品仏浄真寺との特別の関係はないという〔。その後、1970年(昭和45年)に本殿が再建された〔。 奥澤神社は、世田谷区立八幡小学校の発祥地である〔〔『ふるさと世田谷を語る 尾山台、奥沢』45-46頁。〕〔『ふるさと世田谷を語る 尾山台、奥沢』79-80頁。〕。慶応の末に、この神社の社寮に下沼部村向河原の人(名は不明)が土地の子弟を集めて、読み書きなどを教えた〔〔〔『史蹟散歩』、94-95頁。〕。その後に小林大次郎という名の浪人がその仕事を引き継いだ〔〔。さらに東京府士族の松沢弘義が寺子屋を始め、さらに茨城県人の池田孝一郎が「池田学校」と名を改めて授業を続けた〔〔。1879年(明治12年)12月20日、戸長の毛利多喜蔵などが社寮の一部を改修して認可を得、神社名をとって「八幡小学校」と命名した〔〔〔。開校当時の児童数は30名、校舎の広さは15坪(約49.6平方メートル)であった〔〔。その後1884年(明治17年)の校舎増築を経て、1902年(明治35年)8月5日に現在地(世田谷区玉川田園調布2-17-15)に移転した〔。これを記念して、1970年(昭和45年)11月29日に「八幡小学校発祥之地」記念碑が境内に建立された〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥澤神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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