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奥田 八二(おくだ はちじ、1920年11月1日 - 2001年1月21日)は日本の政治家、社会学者。福岡県知事を3期12年にわたって務めた。九州大学名誉教授。 ==来歴・人物== 1920年、兵庫県で生まれる。龍野中学校、姫路高等学校 (旧制)を経て、1944年に九州帝國大学(現・九州大学)法文学部を卒業し、九州大学で社会思想史の研究に取り組み教授に就任した。また、社会主義協会の発足や、炭鉱失業者の救済を目指した「黒い羽根運動」に参加した。1967年の社会主義協会分裂では太田派に属し、知事退任後は『進歩と改革』(太田派『社会主義』後継誌)にたびたび寄稿した。 1983年、当時の社会党や共産党の推薦を得て福岡県知事選に出馬し、自民党などが推薦した亀井光の5選を阻止して初当選した。しかし少数与党のため議会運営に苦しみ、例として1期目は知事公舎不入居の公約(亀井が在任末期に建設した知事公舎はあまりに豪華であるとして批判されていた)や妻の公職選挙法違反で議会の糾弾を浴びた。知事としては九州で初となる情報公開条例の制定や北九州空港の建設、中洲の復興を目指したアクロス福岡の建設などを進めた〔朝日新聞、2001年1月22日付 朝刊、P.32、福岡1面〕他、当時の福岡県で他県よりも多かった生活保護費の不正受給問題などに手をつけている〔朝日新聞、2001年2月19日付 夕刊、P.5〕。 3選時に同和行政の進め方をめぐって社会党・共産党の共闘が崩れた事もあり、達成感を主な理由として4期目は出馬しなかった。在任中に旅費など県公費の不正支出が全国最高額に達していたことが退任後に発覚し、協力金名目で1600万円を福岡県に支払っている〔朝日新聞、2001年1月22日付 朝刊、P.1、総合面〕。皮肉にも発覚のきっかけは、自ら制定した情報公開条例によりカラ出張の証拠となる書類が開示請求されたことであった。当時奥田は西日本新聞のインタビューに「わかってはいたが色々事情があってやむをえなかった」と答えて「革新知事でありながら県民感情とかけ離れた姿勢」と西日本新聞紙上で批判されている。また、アクロス福岡の理事長を務めた。1995年11月3日叙勲二等授旭日重光章。晩年は入退院が続き、2001年1月21日に多臓器不全のため80歳で逝去。叙従三位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥田八二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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