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奥田 務(おくだ つとむ、1939年10月14日 - )は、日本の実業家。J.フロント リテイリング相談役。前会長兼CEO。 トヨタ自動車社長・会長、日本経団連会長を歴任した奥田碩は7歳違いの兄。 == 来歴・人物 == 三重県津市で7人兄弟の5人目として生まれる。奥田家は祖父喜一郎が明治末期に奥田証券を津市に創業。大正時代には、大阪に拠点を構えるなど三重県では最大の証券会社だった。特に、祖父は気性が荒く、芦屋市に別邸を構えた相場師だった。父は慶應義塾大学経済学部出身で、歌舞伎鑑賞が趣味の温和な性格だった。父の兄弟は6人いたが、当時としては珍しく、父を含めてほとんどが東京六大学を出ていた。 奥田家は第2次大戦前まで資産家として名が通っていたが、父が引き継いだ奥田証券は経営不振に陥った。昭和40年代前半、奥田証券は証券不況のあおりで破綻。後年、大阪証券取引所役員を務め、当時東京証券取引所の役員を務めていた兄奥田碩と、合併により誕生した日本取引所グループの役員会で会った際には、「祖父と父が見たら喜ぶやろね」と語り合ったという〔奥田務「私の履歴書2」,日本経済新聞2015年12月2日〕。 戦争によって母方の祖母が住んでいた飯南郡上蛸路(松阪市)に疎開し、祖母の家の近くで借家住まいを続けた。この母方の一族・常保家は百済からの渡来人の家系といい、代々鋳造師を輩出し、歴史学者が調査に訪れるほど歴史ある家系だったという〔奥田務「私の履歴書2」,日本経済新聞2015年12月2日〕。 兄の碩は家業を継ぐことも考え地元のトヨタ自販に入社。務は高校卒業時、歴史学者になりたいと考えたが、父から笑われ、断念。高校ではあまり勉強しておらず、会社を継ごうと考え、大学を受験しないまま、高校を卒業した。高校卒業後は、一橋大学を出ていた兄・碩や、東京大学、慶應義塾大学などを出ていた叔父、父らの影響から、東京の大学に進学しようと考え、家で受験勉強を行っていた。ただ、家業を継ぐことを考えていたこともあり、祖母から期待されていた努力家の兄とは違い、真剣に勉強をせず、趣味の推理小説やクラシック音楽を楽しむ生活を送っていた。しかし二浪時には、下落合に下宿し代々木の予備校で、国立大学受験者用の特進コースに通った。やがて国立大学より受験科目の少ない私立大学を受験することを考え、父と同じ慶應義塾大学の法学部、経済学部、商学部に合格した〔奥田務「私の履歴書8」,日本経済新聞2015年12月8日〕。 父は経済学部への進学を希望していたが、1960年慶應義塾大学法学部に入学し国際公法を学ぶ。大学卒業後は、総合商社への就職を夢見ていたが、大学時代「流通革命」(林周二著)を読み就職先に小売業も考えるようになり、学校推薦を受けて当時日本一の百貨店大丸で形だけの面接を受け、内定を得た。総合商社を受けるため就職活動を続けるつもりだったが、大学から推薦がもらえず断念した〔奥田務「私の履歴書10」,日本経済新聞2015年12月10日〕。 大丸入社後は、5ヶ月間の研修を経て、大丸京都店の旅行用品売り場を担当したが、雑用の仕事が多く、会社をやめることも考えた。1966年に外商部門に異動。30代前半でニューヨーク州立ファッション工科大学留学と米大手百貨店ブルーミングデールズへの研修チャンスを得て渡米。帰国後梅田店開設の責任者に選ばれ、大丸梅田で成功を収める。奥田流の百貨店運営術は「梅田学派」と呼ばれた。大丸社長に就任してからは国内不採算店閉鎖、海外の事業撤退、人員削減などを行い、「負の遺産の整理」と「業務オペレーションの改革」などの守りと攻めの改革による経営で大丸は百貨店業界トップクラスの営業利益額と率を達成した。同業松坂屋との経営統合にあたっても主導的な役割を担った。 その他関西経済同友会代表幹事、21世紀臨調顧問会議代表、関西経済連合会副会長、毎日放送監査役、りそなホールディングス取締役などをそれぞれ務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥田務」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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