翻訳と辞書
Words near each other
・ 奥田実紀
・ 奥田実里
・ 奥田小学校
・ 奥田小由女
・ 奥田崇
・ 奥田幹生
・ 奥田座
・ 奥田庸介
・ 奥田建
・ 奥田弦
奥田忠高
・ 奥田怜子
・ 奥田恭子
・ 奥田恵梨華
・ 奥田愛基
・ 奥田政行
・ 奥田敏輝
・ 奥田敏雄
・ 奥田教久
・ 奥田敦


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

奥田忠高 : ミニ英和和英辞書
奥田忠高[おくだ ただたか]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 

奥田忠高 : ウィキペディア日本語版
奥田忠高[おくだ ただたか]
奥田 忠高(おくだ ただたか、大永2年(1522年)- 慶長6年4月25日1601年5月27日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大和国武将官途名は主税助、三河守。通称は八郎右衛門、三郎右衛門。
== 生涯 ==
大永2年(1522年)、大和国の武将・小山八郎右衛門の子として誕生。のちに奥田兼重の養子となる。
忠高は大和国畑城(現在の奈良県山添村)を根拠としたが、松永久秀筒井順慶豊臣秀長といった歴代の大和国主に仕えて勢力を維持した。秀長の死後、一度は致仕して大和へ隠棲したが、慶長5年(1600年)に山岡景友を仲介者として徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍側について活躍。家康から大和国山辺郡紀伊国名草郡に2,800石を与えられた。
慶長6年(1601年)、死去。享年80。法名は道虚。
子孫は江戸幕府旗本となり、明治維新まで家名を残した。子の忠次大坂夏の陣後藤基次と激闘の末に戦死している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「奥田忠高」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.