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奥田正香 : ミニ英和和英辞書
奥田正香[おくだ まさか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

奥田正香 : ウィキペディア日本語版
奥田正香[おくだ まさか]
奥田 正香(おくだ まさか、弘化4年3月(1847年) - 1921年大正10年)1月31日)は、明治時代に活動した日本実業家
元は尾張藩藩士味噌醤油製造で財を成し、その後名古屋で多くの有力企業の設立に関与して「名古屋の渋沢栄一」と呼ばれた。名古屋商業会議所(後の名古屋商工会議所)の会頭を長く務め、愛知県会議員としての活動歴もある。
== 経歴 ==
奥田正香は弘化4年3月(1847年)、尾張国春日井郡鍋屋上野村(現・愛知県名古屋市千種区)の和田家に生まれた。幼名は謙之介で、のちに尾張藩士の奥田主馬(おくだ しゅめ)に引き取られた。幼少時より学門を好み、丹羽賢と親交を結んで幕末には丹羽に従い国事に奔走した。1868年(明治元年)、藩校明倫堂の国学助教見習となる。このころ藩命により甲信地方へ勤皇誘引のため遊説に出かけたが、信州の旅館で商人から横浜での生糸貿易の状況を偶然聞いたことが後の財界入りの素地となったという。維新後はしばらく役人生活を送り、1870年(明治3年)11月から名古屋県(現・愛知県)、翌年からは安濃津県(現・三重県)に赴任した〔『明治の名古屋人』、名古屋市教育委員会、1969年、pp.455-457〕〔林董一 『名古屋商人史』、中部経済新聞社、1966年、pp.418-428ほか〕。
官吏を辞した奥田は、名古屋で味噌溜醤油の製造を始めた〔〔。明治時代初期の当時、味噌・醤油製造業は名古屋における主要工業の一つであった。奥田が開業した店は繁盛し、1890年(明治23年)には、醤油については名古屋で第4位の生産高をもつ業者となっていた〔。1880年(明治13年)10月、愛知県会議員に当選。再選ののち1888年(明治21年)1月まで県会議員を2期務めた。任期中の1881年(明治14年)11月から翌年9月にかけては県会区部会議長に就任している〔愛知県議会史編纂委員会(編)『愛知県議会史』第1巻、愛知県議会事務局、1953年、pp.448,574〕。
味噌・醤油製造業で資産的基盤を築いた奥田は、1880年代末から事業を多方面に広げた。まず1887年(明治20年)尾張紡績を設立、以降名古屋生命保険、名古屋倉庫、明治銀行、日本車輌製造、名古屋電力、名古屋瓦斯、福寿生命保険など数多くの会社経営に参加している。経済関係の公職では、1891年(明治24年)4月名古屋商業会議所(現・名古屋商工会議所)の会員第1回選挙で当選。同年7月の役員選で会頭に推挙されたものの奥田は辞退したが、1893年(明治26年)7月の役員選で再び会頭に推挙されると今度は承諾し、名古屋商業会議所会頭に就任した。在任期間は1913年(大正2年)10月までのおよそ20年間で、その間、電話架設、熱田港(名古屋港)改修、鉄道誘致、日本銀行支店誘致などの重要案件があった〔〔。その他、1893年名古屋株式取引所の設立に参加し初代理事長となった〔。
奥田は新人起用に積極的であり、奥田に取り立てられた鈴木摠兵衛安東敏之上遠野富之助兼松煕の4人は「四天王」と呼ばれた。また、名古屋電力および名古屋瓦斯設立時の斡旋(両社は1906年(明治39年)設立)が契機となり、愛知県知事深野一三と名古屋市長加藤重三郎に接近、政界と深い繋がりを持って商業会議所会頭の奥田と知事・市長の関係は「三角同盟」と称された〔〔。
1913年(大正2年)、大須にあった遊廓旭廓)の移転にからむ汚職疑惑が発覚する。この事件では前市長で当時名古屋電灯社長の加藤重三郎と前知事で当時貴族院議員の深野一三というかつての「三角同盟」のうち2人と、腹心の「四天王」のうち安東敏之と兼松煕の2人を含む計5人が起訴された。最終的に5人には無罪判決が下され、奥田自身は取り調べのみで起訴されなかったが、奥田に与えたショックは大きく、事件の後一切の職務から引退して覚王山において仏道生活を送った。1921年(大正10年)1月31日死去〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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