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奥田 義人(おくだ ぎじん/よしと/よしんど、万延元年6月14日(1860年7月31日) - 大正6年(1917年)8月21日)は日本の政治家、官僚。幼名留三郎〔『鳥取県郷土が誇る人物誌』167頁〕。従二位勲一等法学博士男爵。文部大臣、司法大臣、東京市長。中央大学学長。中央大学の創設者の一人。鳥取県人初の大臣〔。 == 経歴 == 邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)で生まれた〔。父奥田鉄蔵は禄高三〇〇石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範をつとめた〔。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校尚徳館に入学、四書五経の素読を終わって大いに学力を身につけた〔『鳥取県百傑伝』171頁〕。 鳥取変則中学校(現在の鳥取西高等学校)に入ってからは成績群を抜き、再三級長をつとめた〔。 名古屋英語学校、京都府中学校を経て上京、東京に第一歩をふみ入れた〔。明治10年(1877年)9月3日のことである〔。不眠不休で勉強して大学予備門への入学を果たした〔『鳥取県百傑伝』172頁〕。 明治13年(1880年)7月東京帝国大学法学部に入学〔。明治17年(1884年)7月優秀な成績で東大を卒業した〔。 藩閥のうしろだてのない義人は、北垣国道の口ぞえで伊藤博文の知遇を得、官界入りした〔。義人の振り出しは太政官御用掛で、伊東巳代治らを補佐して憲法起草にあたったが、内閣制度発足とともに農商務省参事官となった〔。 以後歴代内閣にあって特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長、拓殖務次官、農商務次官、法制局長官を歴任〔。 明治36年(1903年)3月、神奈川県から第8回衆議院議員総選挙に立候補して当選し政界入りを果たす。 明治37年(1904年)3月の解散選挙で鳥取県から立候補して再選。明治41年(1908年)4月21日、宮中顧問官〔『官報』第7443号、明治41年4月22日。〕に任じられ、1913年2月21日まで在任〔『官報』第174号、大正2年3月1日。〕。明治45年(1912年)5月27日、貴族院議員に勅撰された〔『官報』第8680号、明治45年5月28日。〕。 大正2年(1913年)第1次山本内閣が成立すると文部大臣に就任、鳥取県出身の最初の大臣となった。その後同内閣の松田正久法相の死去により司法大臣を兼任したが、シーメンス事件のため大正3年(1914年)3月には内閣総辞職となった。野に下った奥田は中央大学学長に迎えられたが、翌年6月東京市会の強い要請により東京市長に就任。 大正6年(1917年)8月21日、肝腫瘍のため病没〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)7頁〕。死去の一週間前8月14日に多年の功績により男爵を叙爵した〔『官報』第1512号、大正6年8月15日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥田義人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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