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奥貫智策(おくぬき ちさく、天明6年(1786年) - 文化9年(1812年)9月27日)は、囲碁の棋士。武州出身、十一世本因坊元丈門下、五段。知策と書かれることもある。本因坊家跡目と目されたが、27歳で夭逝した。 ==生涯== 武州幸手の出とされるが、詳しい経歴は記録に残されていない。幼時に本因坊元丈に入門、幼名は瀬六。将来を嘱望され、『坐隠談叢』には跡目と記載されているが、跡目届けの記録は無く、実質上の内定とされていたと思われる。本因坊家の菩提寺丸山本妙寺に葬られ、法号は秀得院知策信士。本因坊丈和は1歳年少の弟弟子で、智策生前には並ぶことはできなかった。 棋譜としては、師の元丈と享和2年(1802年)から文化8年に智策先で13局(4勝7敗2打掛)、丈和との享和3年智策四段、丈和(葛野松之助)二段時から文化9年8月までの12局があり、丈和先で3勝3敗1ジゴ、先相先で丈和3勝2敗で、智策に一日の長があったと見られている。 浜松の山本源吉とは、享和3年に先相先1勝7敗で打ち込まれ、先で5勝。次いで文化6年(1809年)3-5月に互先で5勝5敗1ジゴとした。安井門下で江戸詰め尾張藩碁所の鈴木知清と文化8年まで、知清の先ニ、先、先相先の101番があり、知清は後にこれを『對手百談』として刊行した。安井知得仙知とは享和2年から二子、先ニ、先の20番がある。他に井上幻庵因碩と二子局、水谷琢順と互先、片山知的との先ニなどがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥貫智策」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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