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奥貫智策 : ミニ英和和英辞書
奥貫智策[おくぬき ちさく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
: [かん]
 【名詞】 1. kan (approx. 3. 75 kg) 
: [さく]
  1. (n,n-suf) plan 2. policy 

奥貫智策 : ウィキペディア日本語版
奥貫智策[おくぬき ちさく]
奥貫智策(おくぬき ちさく、天明6年(1786年) - 文化9年(1812年)9月27日)は、囲碁棋士武州出身、十一世本因坊元丈門下、五段。知策と書かれることもある。本因坊家跡目と目されたが、27歳で夭逝した。
==生涯==
武州幸手の出とされるが、詳しい経歴は記録に残されていない。幼時に本因坊元丈に入門、幼名は瀬六。将来を嘱望され、『坐隠談叢』には跡目と記載されているが、跡目届けの記録は無く、実質上の内定とされていたと思われる。本因坊家の菩提寺丸山本妙寺に葬られ、法号は秀得院知策信士。本因坊丈和は1歳年少の弟弟子で、智策生前には並ぶことはできなかった。
棋譜としては、師の元丈と享和2年(1802年)から文化8年に智策先で13局(4勝7敗2打掛)、丈和との享和3年智策四段、丈和(葛野松之助)二段時から文化9年8月までの12局があり、丈和先で3勝3敗1ジゴ、先相先で丈和3勝2敗で、智策に一日の長があったと見られている。
浜松山本源吉とは、享和3年に先相先1勝7敗で打ち込まれ、先で5勝。次いで文化6年(1809年)3-5月に互先で5勝5敗1ジゴとした。安井門下で江戸詰め尾張藩碁所鈴木知清と文化8年まで、知清の先ニ、先、先相先の101番があり、知清は後にこれを『對手百談』として刊行した。安井知得仙知とは享和2年から二子、先ニ、先の20番がある。他に井上幻庵因碩と二子局、水谷琢順と互先、片山知的との先ニなどがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「奥貫智策」の詳細全文を読む




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