|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 女 : [じょ] 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter ・ 女人 : [にょにん] (n) women ・ 人 : [ひと] 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1 ・ 術 : [すべ] 【名詞】 1. way 2. method 3. means
女人芸術(にょにんげいじゅつ)は、長谷川時雨が主宰して、1928年(昭和3年)7 月から1932年(昭和7年)6月まで48冊を出した女性の文芸雑誌で、次第に女性解放の理論誌的色彩を濃くした。ほかに、ともに短命に終わった同名の雑誌2例が記録されている。 == 概要 == 1928年7月、女流文壇の姐御、49歳の長谷川時雨は、おのれが人気大衆作家に引き上げた年下の夫三上於菟吉の資金を得て、後進に発表の場を開き、婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集してデザインして出版する商業雑誌、『女人芸術』を発刊した。 創刊時は、発行が長谷川時雨、編集が素川絹子、印刷が生田花世、発行所が牛込区左内町(現新宿区市谷左内町)の時雨宅内『女人芸術社』だったが、のち編集も時雨が兼ね、発行所は赤坂檜町(現赤坂9丁目)へ引っ越した。熱田優子、城しづか(夏子)、堀江かど江、望月百合子、八木あき、小池みどり、川瀬美子らも、参画した。 毎号の赤字は、三上於菟吉が補填した。 菊判、150ページ前後、定価は文藝春秋と同じ40銭。読者の投稿も、選考の上掲載した。連載物として、時雨の回想記『日本橋』と林芙美子の『放浪記』などが記憶される。 全48冊の総目次〔小田切進編:『現代日本文芸総覧 補巻』、明治文献(1973年)」の、p.208 - 248〕には、年齢順に、岡田八千代、野上弥生子、神近市子、山川菊栄、三宅やす子、島本久恵、富本一枝、高群逸枝、長谷川春子、湯浅芳子、尾崎翠、野溝七生子、中条百合子(宮本百合子)、真杉静枝、大谷藤子、戸田豊子、平林英子、林芙美子、中本たか子、村山籌子、窪川いね子(佐多稲子)、竹内てるよ、平林たい子、上田文子(円地文子)、松田解子、矢田津世子、大田洋子、若林つや、などの執筆陣の名が載っている。そして後期には、河上肇、大塚金之助、木村毅、三木清、野呂栄太郎、小林多喜二など男性の名も見える。 :この雑誌を足場に世に出た人たちを、太字にした。 初期は小説・詩歌・随筆・評論などの文芸雑誌で、各界の人気者番付・恋愛座談会などの娯楽記事まで載っているが、次第に文芸欄は縮まり、左傾化して、ソヴィエトの紹介、労働運動・農民運動・国際問題の記事、読者の手記やルポルタージュが増えた。1930年5月号、同6月号は、発売禁止処分にされた。 昭和恐慌のさなかだった。農村は疲弊していた。安値・低品質のメイド・イン・ジャパンを造る工場では、女子工員が低賃金にあえいでいた。ソヴィエトを労働者の楽園とするような言論は、貧困層の耳に入りやすかった。『「女人芸術」はアカだ』、『買うと警察にマークされる』など言われた。講演会では監視する警官がしばしば、『弁士中止』を叫んだ。 日本橋のブルジョワの家に生まれた時雨は、政治的に無色だったが、弱きを助ける江戸っ子で、雑誌の左傾を放任した。彼女の発案で募集して採用された松田解子の『全女性進出行進曲』は、『起て! 燃えつゝ行け /闘ひのこの日ぞ /新たなる世をはらむ /世界の母われら』などと、勇ましかった〔山田耕筰曲、川原喜久恵歌、日本蓄音機商会 → 『山田耕筰の遺産9』の第11曲、コロムビアミュージックエンタテインメント、COCA-13179(1996)〕。 1931年(昭和6年)、10月号が発禁になった。関東軍が満州事変を始めていた。そしてまた発行を続けたが、翌1932年6月号を出して突然廃刊した。印刷会社への支払いの滞りと時雨の腎盂炎の悪化とが原因だった。 7月号は刷り上がっていたが、処分され、残っていない。 その後、長谷川は雑誌『輝ク』を主宰し、輝ク会をつくって、女性文化人の結集をはかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「女人芸術」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|