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女教皇ヨハンナ(おんなきょうこうヨハンナ、Ioanna Papissa)は、中世の伝説で855年から858年まで在位したとされる女性のローマ教皇である。 歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる。 == 伝説 == ===13世紀の記述=== 女教皇ヨハンナの話は13世紀のポーランドの年代記作家オパヴァのマルティン(ドイツではトロッパウのマルティン、''マルティン・ポルヌス''すなわち「ポーランドのマルティン」としても知られる)から主に知られている。彼は''Chronicon Pontificum et Imperatum''の中でこう記述している。 つまり、この出来事はレオ4世からベネディクトゥス3世の間の850年代に起きたとされている。 この話の別のバージョンがより古い時代のテキストにも登場する。 もっとも引用されるのは''Liber Pontificalis''の写本のうちバチカンでみつかったものの中のアナスタシウス3世ビブオテカリウスについての記述部分であり、彼は女教皇と同時代人の筈である。 しかし、この記述は明らかにマルティンの後の時代の書体で、文脈とは全く関係のない位置に脚注として挿入されている。つまりこれはマルティンの記述を元に挿入されたものであり、論拠とはなりえない。また、''Liber Pontificalis''の他の写本には彼女の記述は見うけられない。 マリアヌス・スコトゥス(Marianus Scotus)が11世紀に執筆した「教皇についての年代記」(''Chronicle of the Popes'')についても同様だ。彼女の名前について触れるもっと古いテキストである写本ではヨハンナという女教皇について触れているが、これら全ての写本はマルティンの時代よりも新しい。もっと古い時代の写本はこの伝説について全く触れていない。 女教皇の記述の見られる、マルティン以前のテキストは、ジャン・ド・マイイ(Jean de Mailly)が13世紀にマルティンよりわずかに早く執筆した年代記''Chronica Universalis Mettensis''だけである。彼は女教皇の時代を850年代ではなく1099年に設定し、こう書いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「女教皇ヨハンナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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