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【名詞】 1. queen =========================== ・ 女 : [じょ] 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter ・ 女王 : [じょおう] 【名詞】 1. queen ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
女王(じょおう、じょうおう、ラテン語:regina、フランス語:reine、英語:queen、ドイツ語:Königin)は、一般に「王」のうち女性であるもの、または男性の「王」に相当する女性の地位。 「王」は、君主の一般的な称号として用いられるほか皇族や諸侯の称号として、あるいは転じて第一人者の意味で用いられるが、これは「女王」についても同様である。ここでは、君主としての女王の意味のほか、その派生的用法について記述する。 :''以下、ヨーロッパ諸言語の一般例として英語を用いる。'' 日本語においては、君主として自ら王位を有する女王(queen regnant)は、男王の配偶者である王妃(queen consort)とは言葉の上で完全に区別される。また、王位ではなく帝位を有する女帝(empress regnant:これも皇后(empress consort)とは区別される)とも区別される。ただし、原語で女王と王妃を区別せず、単にクイーン(queen)とされている場合に、本来は「王妃」であっても「女王」と訳されることもある。 女王の配偶者は王配(prince consort, king consort)と呼ばれることがある。 == 概要 == 以下では女王だけでなく、女性君主全般についても言及する。 近代以前には男性を中心とし、かつ君主に実質的な統治権力が与えられる社会が多く見られたが、こういった社会においてはその帰結として女性が君主となることは少なかった。 伝えられる中で最も古い女王としては、旧約聖書に出てくるシバの女王がいるが、伝説の域を出ていない。 古代のプトレマイオス朝エジプトでは、男王との共同統治という形でクレオパトラなどの女王が現れた。古代エジプトでは王位継承権を、王室の王女が持つことが多く(王子が持つこともあった)、この王女と結婚した王室の男性がファラオ(王)になるという慣習があった。この慣習の後、プトレマイオス朝では、代々男王と女王の共同統治が続くことになった。一方、力を持ち単独で支配した女性のファラオは第18王朝のハトシェプストがいるのみである。他にはセベクネフェルなどの単独の女王もいた。 古代の日本においては、邪馬台国の女王として卑弥呼が知られるが、実権は弟が握っていたとも見られ、実態は明らかでない。飛鳥時代から奈良時代、また江戸時代には女性天皇が存在したが、これについては当該項目を参照。 新羅では7世紀に善徳女王など3人の女王が即位した。中国では女性君主も女系継承という考え方もなく、母后として実権を振るった女性は多いが、女帝として即位したのは武則天が唯一であった。 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では8世紀にエイレーネーが女帝となったが、西ヨーロッパはこれに反発し、カール大帝を西ローマ皇帝とした。東ローマ帝国では以後もテオドラ、ゾエ、エウドキア・マクレンボリティサなど女帝が誕生する。 一方、西ヨーロッパにおいては、ゲルマン法系のサリカ法典が女性による土地の相続を禁止しており、これが女性の王位継承を禁じていると解釈されたため、その影響下にある地域(フランス、ドイツ諸邦など)においては女王は原則として存在しなかった。しかし、他の地域では女性君主が存在することがあった。 12世紀のエルサレム王国では、国王ボードゥアン2世の娘メリザンドがアンジュー伯フルク5世を婿に迎え、共同国王とした。 12世紀のイングランドでは、ヘンリー1世の死後、唯一の嫡子である娘マティルダが王位を主張した。上述のメリザンドは既に即位しており、その夫フルクはモードの夫アンジュー伯ジョフロワ4世の父に当たるため、イングランドでも同様の即位は可能と考えたと思われる。しかし、一時期「イングランド人の女主人」を称し事実上の女王となったが、正式の即位は果たせず、息子ヘンリー2世が王位を継ぐことになる。 13世紀のスコットランドでは、3歳の幼君マーガレットが女王となるが、父であるノルウェー王エイリーク2世の下で養育される、完全に名目だけの君主だった。しかも7歳の時、スコットランドへ渡り着くやいなや死去している。 14世紀の終わりに、デンマーク王女マルグレーテが同国の事実上の君主として辣腕を振るい、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧三国を支配した(カルマル同盟)が、正式な女王の位にはついていない。しかし君主並みの権力を擁していたため、後年女王として遇され、20世紀に即位したデンマーク女王はマルグレーテ2世と称している。 15世紀にイサベル1世がカスティーリャ女王となったが、イサベルはカスティーリャにおいては夫のアラゴン王フェルナンド2世との共同統治、アラゴンにおいてはフェルナンドの王妃であった。イサベル1世の死にともないフェルナンドもカスティーリャ王位を失い、カスティーリャ王位は2人の娘のフアナ女王が継承したもののその数年後に健康を害した。アラゴンの王位はフェルナンド2世の死後にフアナの長男カルロス1世が継承した。両王位が形式上も1人の君主のものとして統合されるのは、フアナの死後のことである。 16世紀にスコットランドでは、メアリー女王が生後わずか数日で即位するが、5歳でフランスに渡り、その後フランソワ2世の王妃となった。フランソワ2世が早世したため18歳でスコットランドに帰国するが、24歳で退位している。その間、スコットランド国内は貴族が支配し、メアリーに君主としての実権はほとんどなかった。 16世紀のイングランドではエドワード6世の死でテューダー家の男子が絶え、ジェーン・グレイ、メアリー1世、エリザベス1世と女王が続いた。ジェーンは完全な傀儡であり、しかも即位自体を認めない場合もある。メアリーも夫のスペイン王フェリペ2世に政治的干渉を受けていたため、実権を持つ単独の女王はエリザベスが初めてであるという見方もある。一方、エリザベス1世は25歳で即位、45年在位してイギリス海洋帝国の基礎を築いた。 17世紀のスウェーデンでは、グスタフ2世アドルフの戦死後、6歳の娘クリスティーナが女王になった。従兄のカール10世と継承争いが起こってもおかしくない状況であったが、クリスティーナがカールと婚約することですんなりと決まった。しかし、クリスティーナは決められた結婚と不自由な女王の座を嫌い、28歳で王位をカール10世に譲り、ローマに移住して気ままな人生を送った。スウェーデンではまた、18世紀初頭にカール12世の後を襲い、ウルリカ・エレオノーラが女王に戴冠している。しかし王権が著しく制限されたことへの不満から、わずか2年で夫フレドリク1世に譲位した。 18世紀には、女性による継承が禁じられていたハプスブルク家において相続問題が生じたものの、プラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事勅書)によりマリア・テレジアが家督を相続した。これを巡ってオーストリア継承戦争が勃発する。ハプスブルク家が事実上世襲化していた神聖ローマ皇帝位は、一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家に奪われた後、マリア・テレジアの夫フランツ1世が継承した。マリア・テレジア自身は神聖ローマ帝国においてはフランツ1世の皇后という立場だったが、ハプスブルク家領(ハプスブルク君主国)においてはオーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王などの君主位に就いており、自らが君主として君臨した。 18世紀のロシア帝国では、エカチェリーナ1世が女帝となって以降、4人の女帝が現れた。重臣たちの傀儡が多かったが、エカチェリーナ2世は実権を振るい、ロシアの黄金期を造りあげた。 スペイン・ブルボン朝は創始時にはサリカ法を導入していたが、19世紀にフェルナンド7世がこれを廃し、娘のイサベル2世が即位している。 現代のヨーロッパの王室では、スウェーデンやイギリス、オランダ、ベルギーのように後継者問題や女性の地位向上などに伴い、「男子優先主義」を廃して性別を問わず第一子を後継者とする「第一子主義」への転換を行った国が多く現れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「女王」の詳細全文を読む
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