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奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される〔福岡県の那珂川町を源流とし博多湾に注ぐ二級河川の名称が那珂川(なかがわ)であり、博多湾はかつて那津(なのつ)と呼ばれていた。〕。 == 概要 == 倭国が後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。その後になって、邪馬台国が魏の皇帝に使者を派遣している。魏志倭人伝には3世紀前半にも奴国について記されており、奴国と倭奴国が同一ならば3世紀になっても生き残っていたことになる。 『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された。地中から発掘されたにしては金印の状態が余りに良いために金印偽造説も出たが、書体の鑑定等から、偽造説については否定的な意見が大勢を占めている。 その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、委は倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭である。このように偏や旁を省略することを減筆という。金印については「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて委奴を「伊都国」にあてる説や、匈奴と同じく倭人を蛮族として人偏を省略し委奴(わど)の意味とする説もある。 建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。また、安帝の永初元年(107年)に倭国王は帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願った(後漢書東夷伝による) 一方、時代がやや下って〔ただし、三国志の成立は3世紀末、5世紀に成立した後漢書にはるかに先行する。〕『三国志』魏志倭人伝には、3世紀前半の奴国の様子が記録されている〔『後漢書』東夷伝に記されている倭奴国と「魏志倭人伝」に記されている奴国が同一の国かどうかは確定していない。〕。 訳文:東南の奴国まで百里ある。そこの長官を兕馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。 なお、魏志倭人伝には、もう一ヶ所「奴国」があらわれる。 訳文:自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。次に斯馬国(中略)次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り 文字通り、九州の奴国とは別に、近畿大和から見て東の伊勢付近に別の奴国があったという説と、周回して同一の九州の奴国を2度記したとする説、あるいは何らかの文字が脱落したとする説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奴国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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