|
後秦(こうしん、384年 - 417年)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。 == 歴史 == === 部族時代 === 後秦の支配集団・姚氏は後漢時代に猖獗を極めた焼当羌の子孫である。羌族の乱が平定された後、この部は南安郡赤亭(現在の甘粛省隴西県付近)へ移されたため、南安赤亭羌と称された。三国時代の魏の末期、族長の柯迴は鄧艾に従って263年に蜀(蜀漢)を滅ぼし、功績によって鎮西将軍・綏戎校尉・西羌都督を受け、4世紀初頭に子の姚弋仲が部を継いだ。 311年、西晋の都洛陽が匈奴の漢(後の前趙)によって陥落すると、翌312年に姚弋仲は南安から馮翊郡へ移り、護西羌校尉・雍州刺史・扶風公を自称して弱体化した西晋から自立した。この時、自身の姓を漢人風の「姚氏」とした。 西晋滅亡後、長安に都を定めた前趙は、323年に陳安の乱を平定してようやく関隴一帯を平定した。姚弋仲も前趙に降り、平西将軍・平襄公に封じられて馮翊から隴上(甘粛省秦安県一帯)へ移された。329年、前趙が後趙に滅ぼされると姚弋仲は後趙に降り、安西将軍・六夷左都督に任じられた。333年、後趙の初代皇帝石勒が死ぬと後趙国内は動揺し、長安で一族の石生が反旗を翻した。姚弋仲はこの石生の乱に参加したが、同年に討伐軍に敗れ、羌部は遠く清河郡灄頭県(河北省清河県付近)へ移されてしまった。 349年、3代皇帝石虎が死ぬと、華北は混乱して各地で次々に自立勢力が生まれた。姚弋仲も灄頭で半自立状態となっていたが、後趙から右丞相・親趙王を受けて名目的に後趙政権下にあった。351年、後趙が冉閔によって滅ぼされると、姚弋仲は冉閔の冉魏に降るを潔しとせず、東晋へ使いを送って服属を表明した。 翌352年、姚弋仲が73歳で死去すると、第5子の姚襄が部を引き継いだ。同年、姚襄は本拠の関中へ帰ろうと灄頭を放棄して西行したが、後趙から自立した諸勢力に阻まれて大敗し、ついに部衆を挙げて東晋領内へ逃れ、譙(安徽省毫県付近)に移された。しかし、姚襄は独自で行動することが多く、東晋の為政者からは警戒された。翌353年、東晋の殷浩は北伐を行うと、手始めとして姚襄に矛先を向けた。姚襄はこの北伐軍を迎撃して大破すると、逆に東晋内部へ攻め込んで一時は都建康の北岸まで迫った。この間に姚襄は、冉魏を滅ぼして河北を平定していた前燕に服属した。 355年、姚襄は大将軍・大単于を自称して北へ戻り許昌(河南省許昌市東)に拠った。しかし翌356年、殷浩に代わって東晋軍を率いた桓温の北伐を受け、大敗して平陽(山西省臨汾市)まで逃れた。姚襄はひたすら関中へ帰ろうと軍を立て直し、357年に龍門津(壷口瀑布付近)から黄河を渡って杏城(陝西省黄陵県付近)へ進撃し、関中に割拠していた前秦を攻めた。しかし、姚襄は前秦軍に連敗し、三原(陝西省三原県)で捕らえられて殺された。 姚襄が敗死すると、弟の姚萇は部を率いて前秦に降伏した。前秦の英主苻堅は姚萇を重用し、姚萇は前秦の南郷遠征(366年)、略陽討伐(367年)、前燕遠征(370年)、前仇池遠征(371年)、四川遠征(373年)、前涼遠征(376年)、襄陽遠征(378年)に従事して多大な功績を挙げた。383年、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗すると配下の異民族が相次いで自立、急速に瓦解し始めた。384年、姚萇は前秦から自立した西燕の慕容泓討伐に敗れたため、苻堅の怒りを恐れて渭水北岸の馬牧へ逃れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後秦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Later Qin 」があります。 スポンサード リンク
|