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姿 節雄(すがた せつお、1916年5月15日 - 1999年2月18日)は日本の柔道家(講道館9段)。 == 経歴 == 広島県神石郡神石町(現・神石高原町)古川出身。子供の頃から柔道を始め(記録上の講道館入門は1932年)、1934年の3月に県立府中中学校を卒業する時には全国でも数少ない中学生での3段位に列せられた〔。 卒業後は上京して明治大学の専門部へ入学し、名人・三船久蔵の内弟子に〔。入学から3ヵ月後に4段、翌35年1月には2年生の弱冠20歳ながら5段に昇段して同年秋の講道館紅白試合では5段の部で5人抜きを達成している〔。3年次の1936年4月11日に福岡市で開催された第1回全日本東西対抗大会(両軍32人ずつの抜き試合)には大会最年少選手として出場し、武専の名手・阿部謙四郎をあっさり横四方固で降したものの、続く南満州鉄道の加藤幸蔵には跳巻込で敗れた〔。1937年5月28日に大連市で開催の第9回東京学生連合対全満州の対抗試合に東京軍副将として出場し、前年に敗れた全満主将の加藤幸蔵と相対すると、背負投で技有を取り、相手の払腰を返して上四方固で抑え込み雪辱を果たした〔。1938年3月に専門部を卒業すると同大政治経済学部へ再入学し〔、同年10月の第8回全日本選士権の一般壮年前期の部に2区(東京)代表で出場、2回戦で7区(九州)代表の村上一雄と激闘の末に腕緘で敗れたものの、3位という成績を残している(同部は村上一雄が優勝し、大会3連覇を達成)〔。その後も1939年7月11日の警視庁対東京学生連合対抗試合で主将として出場し強豪・真壁愛之助と引き分けて勝利を引き寄せたほか、5日後の7月16日には第11回東京学生連合対全満州対抗試合に学連軍大将として出場し満州側副将の尾崎稲穂、大将の飯山栄作を立て続けに破って学連軍の勝利に貢献している〔。この他、1939年の熱田神宮奉賛大会や橿原神宮奉祝全国武道大会、1940年の紀元二千六百年奉祝全日本東西対抗大会への出場記録が残る〔。また41年に卒業するまでの間、講道館長南郷次郎開設の高等柔道教員養成所にて倫理・日本史・生理学を学んで“教導”の称号を経たほか、三船の師範代として近隣の各中学にて指導も行った〔。 卒業直後の1941年4月に異例の速さで6段に昇段すると、同年の宮内省主催済寧館武道大会では6段の部で優勝を果たした〔。海軍経理学校や東京鉄道局での教員を経て1942年1月に兵役するまでの約8年間を三船の元で過ごし〔、これは数多の三船の門弟の中でも最長である〔。 終戦後の1947年9月に7段に昇段してからも積極的に試合に出場し〔、1948年に全関東対全九州対応大会や、1951年には35歳という年齢ながら全日本選手権へも出場している〔結果は1回戦で夏井昇吉に敗北。〕。 また、GHQによる武道禁止令の後に学校柔道が復活する事を見越して葉山三郎や小田明道らと共に明治大学柔道部の再構築に着手〔。1951年の3月から10月にかけて東京学生柔道連盟や関西学生柔道連盟、全日本学生柔道連盟が相次いで再組織されると、姿は三船の後任として母校・明治大学の師範に就任した。自費を投じて部員の合宿所である姿寮を建設するなど柔道部隆盛のために奔走し〔、古くは曽根康治や神永昭夫、後には上村春樹や吉田秀彦、小川直也ら数多の全日本チャンピオン・世界チャンピオンらを輩出して明大柔道部を日本有数のレベルに育て上げた。また女子柔道部のなかった明治大学への入学を熱望した阿武教子(当時高校生ながら皇后盃全日本女子選手権を2連覇中)に対し、姿が「そこまでいうなら入れてやれ」と門戸を開き、後々阿武は世界選手権4連覇するに至った点なども特筆される。 姿の柔道界での活動は明治大学という枠に収まらず、全日本柔道連盟常任理事・顧問や東京都柔道連盟理事・副会長、全日本学生柔道連盟顧問、東京学生柔道連盟副会長、講道館評議員らを務め〔、中央競馬会並びに競馬保安協会の参与を歴任した〔。1983年から1986年まで続いた全日本柔道連盟と全日本学生柔道連盟との対立の際には、講道館長嘉納行光および全日本学生柔道連盟会長松前重義の意を受けて東京大学柔道連盟会長の重責に就き、事態収拾の中心的役割を果たしている〔。 長年の功績から1984年に講道館より9段位を授与され〔、1992年7月6日には明治大学の特別功労賞を受賞した。同年に心臓ペースメーカーの植え込み手術を行ってからも生涯現役を貫いて、道衣を着用して後進の指導に当たり、この生活は病に伏す前年の1998年3月まで続けられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「姿節雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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