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威奈 大村(いな の おおむら、天智天皇元年(662年) - 慶雲4年4月24日(707年5月29日))は、日本の飛鳥時代の貴族。氏は猪名とも書き、姓(カバネ)は真人。威奈鏡公(額田鏡王)の三男。官位は正五位下・越後守。 == 経歴 == 『続日本紀』では猪名真人大村、『威名真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌には威奈真人大村と記される。以下に記す事績のうち、『続日本紀』に記されるのは御装副官と越後守の任官の二つだけである。その他は墓誌によるが、墓誌には御装副と越後守の任官が書かれていない。 墓誌によれば、威奈大村は天智天皇元年(662年)に威奈鏡公の第三子として生まれる。 天武天皇の14年(685年)か翌朱鳥元年(686年)に冠位四十八階制の務広肆となる。藤原宮に移ってから、勤広肆・少納言に叙任された。さらに直広肆に進み、大宝元年(701年)大宝律令に基づく位階制のもとで従五位下に叙せられ、侍従を兼ねた。大宝3年(703年)に行われた持統天皇の葬儀に際して、御装長官の穂積親王を輔佐する3人の副官の1人に任ぜられる。なお、他の2人は従四位下・広瀬王と正五位下の石川宮麻呂であった〔『続日本紀』大宝3年10月丁夘(9日)条〕。大宝4年(704年)正月に従五位上に昇叙され、翌慶雲2年(705年)には左少弁を兼ねた。 同年11月16日に大村は越後城司に任命された。『続日本紀』によれば翌慶雲3年(706年)閏正月に越後守に任官している〔『続日本紀』慶雲3年閏正月庚戌(5日)条〕。越後城・越後城司は大村の墓誌にしか現れない城柵で、越後守と同じ官職、あるいは越後守の下僚にあたる官職か、学説が分かれる。3か月しか違わない任命時期の解釈も、一方を誤りとする説と、任命日と赴任日のずれと解する説、越後城司から越後守への昇進とする説がある〔『新潟県史』通史編1(原始古代)407-408頁〕。これ以前にも越後守の補任は行われていると考えられるが、名前が知られる中では大村が最初の越後守・越後国司である。 当時の越後国は後のものより範囲が狭く、新潟県本州部の東半分にあたり、蝦夷の領域と境を接する国境地帯であった。墓誌では、越後城司としての大村の統治を仁政を敷いたものと称え、軍事的な功績は記さない。慶雲4年(707年)2月に正五位下に進むが、同年4月24日に任地の越後国で卒去。享年46。最終官位は越後守正五位下。遺骨は大和国に持ち帰られ、同年11月に同国葛下郡山君里狛井山崗(現在の奈良県香芝市穴虫字馬場)に帰葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「威奈大村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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