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婦女隊(ふじょたい)は、会津戦争において、会津藩江戸詰勘定役中野平内〔中野平内は照姫の祐筆を務めたことがあった。〕の長女、中野竹子らにより自発的に組織された女性だけの郷里防衛隊である。 娘子軍(じょうしぐん)、娘子隊(じょうしたい)と呼ばれることもあるが、編成時には名称は定まっていなかった。参加者らは娘子軍〔娘子軍は、これ以前よりあった言葉で、女性だけの参加する軍隊をさす普通名詞である。〕や婦女隊と呼び合い、『会津戊辰戦史』でも特に隊名を記さず、単に「女隊」と表記している〔。いずれも隊の正式な名前ではなかったが、当項目では「婦女隊」で統一する。 == 概要 == 慶応4年(1868年)8月23日、新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下へ進攻してきた際、前会津藩主松平容保の義姉にあたる照姫〔会津藩の女性の最高位にあり、藩士子女全員の指導的地位にあった。〕が会津坂下に避難しているという情報を耳にした中野竹子らが、照姫を護衛するため自発的に組織したのが、婦女隊であった〔依田姉妹は、まき子の夫が鳥羽・伏見の戦いで討死したので、薙刀を習って雪辱に燃えていた。『会津落城』〕。 照姫を護衛すべく会津坂下に向かった婦女隊であったが、この情報は誤報であり、照姫を発見することが出来ず、すでに城門も閉ざされていた。やむなく、会津坂下の法界寺に宿泊した。すると24日、付近の高瀬村に会津勢が通ったので、指揮官の家老萱野権兵衛に従軍を申し出たが、女子であるために拒否された。しかし彼女たちはさらに部隊長である町野主水に掛け合って、従軍が叶わなければ自害すると熱く迫ったので、翌日先鋒となる古屋佐久左衛門の衝鋒隊の攻撃に加わることが許された。 翌25日、宿願叶い戦闘に参加することになった。捕縛されて辱めを受けることも非常に恐れた婦女隊(参戦約十名)は文字通り死を決していて、涙橋の戦い〔「柳橋」とも言う。〕で壮絶な奮戦を見せた。新政府軍の大垣・長州勢〔指揮官は、有地品之允、原田良八、九鬼円之助(戦死)〕は衝鋒隊に女子が混ざっているのを嘲笑って生捕ろうとするが、その武勇に驚き、慌てて銃を取り、銃弾の雨を降らした。 薙刀で突進した中野竹子は額に銃弾を受けて戦死した。首級は新政府軍に奪われることをよしとしなかったので、妹中野優子はすでに息絶えた姉を介錯〔母のこう子または農兵が介錯したとする説もある。〕してその首を白羽二重に包んで回収した〔中野竹子の薙刀には「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」と辞世を記した短冊が結ばれていたという。「新説戦乱の日本史」〕。なお、竹子は胸を撃たれて倒れたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。 軍事奉行添役として鳥羽・伏見の戦いの不手際で自害させられた神保修理の未亡人で、美貌で知られた神保雪子は、同じく戦死したとも、捕縛されたとも言う。一説には、雪子は大垣兵に生け捕りにされた際に幽閉され、会津坂下長命寺におかれ解放されないので、脇差で自刃したという。経過は不明だが、いずれにしてもこの日に彼女も死亡した。 残る婦女隊は、衝鋒隊、町野隊らに従い、高瀬村まで退却した。ここで萱野権兵衛は軍奉行柴太一郎と共に婦女隊を見舞った。血潮に染まった衣服で薙刀に初陣の手柄の跡が残っていると言う面々に涙を流して感服したが、「今日の実戦は大筒小筒の争いである」と諭して「婦女子が戦場の露と消えるは我らの本意にあらず」と再度説得。隊長格をすでに失った婦女隊は事実上、解散となった。 その後、彼女たちは、数日間、涙橋周辺に留まってから鶴ヶ城に入り、他の女性と同様に籠城の支援に回った。なお、同城下での戦闘では、極めて多くの藩士の妻や子女が自害している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「婦女隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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