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孔王部 : ミニ英和和英辞書
孔王部[あなおうぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

孔王部 : ウィキペディア日本語版
孔王部[あなおうぶ]

孔王部〔埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.273 平成16年10月30日発行〕(あなほべ)は、安康天皇御名代部として設置した穴穂部(あなほべ)に始まった御名代部である。第二十代安康天皇が近江国穴太村に穴穂宮を建て、そして、自らを穴穂天皇と称した。この穴穂部は、安康天皇の崩御後に第二十一代雄略天皇が十九年紀(480)に詔して置いた安康天皇の御名代部である。

孔王部の支配管掌

下総国猿島郡伏木村字穴太(あなほ)の孔王部や、葛飾郡大島郷の孔王部を支配管掌したのが下海上国造(しもつうながみのくにのみやっこ)の孔王部直(あなほべのあたい)である。

所在地

「葛飾郡八島郷。同郡大島村ナルベシ。和名抄ニ、傍訓ヤシマトアレド、誤字ニスガリシ訓ニテ、證トハナシ難シ。養老五年ノ戸籍ニ、(京師穂井田忠友ヵ所蔵)下総国葛飾郡大島郷河和里云云トアリ。忠友云、和名抄ノ八島ハ、大島ノ誤リナルベシト。(東大寺古記モ大島ニ作レリトゾ)大島村ハ、杉戸宿ノ傍ニテ、養老戸籍ノ河和里、即兵部式ノ河曲ニテ、杉戸駅西ニ、上中下川埼、東西大輪等ノ村アリ、其名残ナラン。今ノ杉戸宿ハ、河曲駅ノ移レルナルベシ。」とある。〔下総国旧事考巻七 清宮秀堅穎栗著 p.293〕「正倉院古文書正集 第二十一巻」に収録された721年作成の「下総国葛飾郡大島郷」の戸籍の大島郷は、上高野村(現、埼玉県幸手市)の甲和里、下高野村及び大島村(埼玉県杉戸町)の仲村里、鷲宮村(現、埼玉県久喜市)字穴辺の嶋俣里の地域を指すものと考えられる。〔埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.275-276  平成16年10月30日発行 〕

根拠

第1に、田数注文の古文書である檪木文書によりますと、葛飾御厨には、嶋俣(しままた)・今井・東一江(ひがしいちのえ)・・・という地名が登場し、嶋俣(現在は地名喪失)に隣接して今井があった。この嶋俣は柴又とは約7km離れている。第2に、下高野村(埼玉県杉戸町)の永福寺龍燈山伝燈記に戸籍の仲村里の里正孔王部堅の伝承がある〔埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.276-277 平成16年10月30日発行〕。ちなみに、その伝燈記から孔王部堅の系図は「堅は後剃髪授戒し慈航沙弥と号し、天平三辛未年七月十五日示寂す。堅の室は瑞枝売と云ふ、大島郷長孔王部醜男の姉也(戸籍の志己夫)、天平勝宝四年十一月十五日逝去し、法名を寂照尼と号す。堅の嫡男を高毛野と云ふ、空智沙弥と号し、天平勝宝五年死す。高毛野の子宗麿は信暁沙弥と号し、自宅を捨て梵刹と為し、阿弥陀寺と号す、延暦元年死す。宗麿の子貴は智満沙弥と号し、天長五年死す。堅五代の孫高野成房(貴の子)は天安元年死す。高野成房の男良康あり。」である。第3に、『義経記』巻二に「下総国高野の領主は陵兵衛(みささぎのひょうえい)と申し候」と登場する、高野村豪族陵兵衛は、孔王部の末裔であって、陵戸を支配管理したと考えられる〔埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.276  平成16年10月30日発行〕。この陵兵衛は、尊卑分脈では、深栖三郎光重の子、堀三郎頼重(諸陵頭)と見え、また、平治物語に深栖三郎光重が子に、陵助重頼といふ不肖の身にて候へ供、源家の末葉にて候、と登場する人物である。〔埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.7386  平成16年10月30日発行〕

== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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