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存明寺(ぞんみょうじ)は、東京都世田谷区北烏山四丁目にある寺院。浄土真宗大谷派に属し、本山は東本願寺、正式名を「桜田山 存明寺」という〔〔『せたがや社寺と史跡その三』16頁。〕。創建は1647年(正保4年)で、旧地は武蔵国豊島郡桜田(現在の警視庁付近)であった〔〔〔『世田谷区史跡散歩』148頁。〕〔『烏山の寺所をたずねて』14-15頁。〕。後に芝金杉を経て1898年(明治31年)に麻布区麻布富士見町(現在の天現寺橋付近)に移転した〔〔。 関東大震災罹災後の1927年(昭和2年)に、烏山の現在地に移転した 〔〔〔。東日本大震災の被災地支援やグリーフケア、「ぞんみょうじこども食堂」などのさまざまな課題に積極的に取り組み、地域の人々とともに歩み続ける寺院である〔『読売新聞』 2016年3月3日付夕刊、第4版、第13面。〕〔『セボネ』2016年1号、2-5頁。〕。 == 歴史 == 存明寺は、烏山寺町のメインストリートにあたる寺院通りに面し、そばに「寺院通三番」バス停留所が設けられている〔『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』236-238頁。〕。寺域は幸龍寺(日蓮宗)と寺院通りをはさんで向かい合い、源正寺(浄土真宗本願寺派)と妙祐寺(浄土真宗本願寺派)がそれぞれ隣り合っている〔。 浄土真宗大谷派に属し、本山は東本願寺、正式名を「桜田山 存明寺」という 〔〔〔〔『烏山の寺町』17-18頁。〕。創建は1647年(正保4年)4月8日にさかのぼり、旧地は武蔵国豊島郡桜田(現在の警視庁付近)であった〔〔〔〔〔。開基となった願龍は酒井氏の出で、1673年(寛文13年)4月13日に没している〔〔〔。 後に寺の地所が武家屋敷の御用地となったため、芝金杉中通へ移転した〔〔〔。『御府内備考続編』によれば、芝金杉中通の寺所は1657年(明暦3年)の大火によって類焼したため、同じく芝金杉の「本寺抱地ノ内五十八坪余」に再移転した〔〔。その後も数度にわたって火災に遭ったため、古記録や寺宝などが失われたという〔〔〔〔。 1898年(明治31年)11月に、麻布区麻布富士見町(現在の天現寺橋付近)に再々移転した〔〔〔。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災罹災後に、境内地のほとんどが道路に接収されたため残されたわずかばかりの土地に存明寺麻布説教所を設けた〔〔〔。なお、この説教所は佑浩寺(港区南麻布四丁目2番38号)という寺院となって現存する〔〔〔。 1927年(昭和2年)11月、に烏山の現在地(当時は北多摩郡千歳村大字烏山小字丸山であった)に移転した〔〔。移転の当時は田畑が広がり、富士山が目前に見渡せるほどの景色であったという〔。 本堂は八間四方で、名古屋の堂宮大工として当時名を知られた伊藤平左衛門の造築である〔〔〔〔〔『せたがやの寺町』15頁。〕。落慶法要は、1928年(昭和3年)3月25日に営まれた〔〔〔。 梵鐘は引き続いて麻布の頃からのものを用い、地域の人々に朝夕の鐘としてその音色はなじみ深いものであった〔〔〔。しかし、この梵鐘は第二次世界大戦の際に供出の憂き目に遭い、ついに戻ることはなかった〔〔〔。 このときは、山門の門扉も一緒に供出したという〔。 鐘楼も第二次世界大戦末期に寺院が陸軍兵士の兵舎として一時的に使用されたときに、柱4本などを切断して防空壕の支柱に流用されている〔。この防空壕の完成前に、第二次世界大戦は終戦を迎えた〔。 存明寺は、「親鸞聖人の教えを学ぶ」場であるとともに、さまざまな社会的課題に地域の人々とともに積極的に取り組む寺院である〔。東日本大震災の被災地支援やグリーフケア〔などの他に、2015年(平成27年)9月30日に「ぞんみょうじこども食堂」を開設した〔〔〔。「ぞんみょうじこども食堂」では、住職夫妻などによってキーマカレーが提供されている〔〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「存明寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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