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孝寧太后(こうねいたいごう、1560年代? - 1630年)は、明の万暦帝の寵妃で弘光帝の祖母。姓は鄭氏。 == 経歴 == 北京の人。庶民の鄭承憲の長女として生まれる。万暦10年(1582年)3月、選ばれて後宮に入り、淑嬪となった。明るく活発な性格で、万暦帝にもっとも寵愛された。最初の妊娠で徳妃に、2度目の妊娠で貴妃に封じられ、3度目に朱常洵(福王、南明で恭皇帝と追諡された)を産んで皇貴妃になった。万暦帝は長男の朱常洛(のちの泰昌帝、王恭妃の子)を愛さず、朱常洵を皇太子に立てたがり、しばしば諍いを起こしたが、結局は朱常洛を皇太子に立てた。 万暦48年(1620年)、皇后の王喜姐が崩じた。万暦帝の詔書により鄭皇貴妃が皇后に封じられたが、翌月に万暦帝自身が崩じた。泰昌帝が即位するが、鄭皇貴妃を皇后に冊立する儀式は挙げられなかった。鄭皇貴妃は大いに心配し、4人の美人〔また一説によると8人。〕を泰昌帝に賄賂として贈った。しかしわずか1か月の在位で、泰昌帝も崩じた。代わって即位した天啓帝は、鄭皇貴妃を仁寿宮へ送り、権力を剥奪した。崇禎3年(1630年)、鄭皇貴妃は薨去した。恭恪恵栄和靖皇貴妃と諡され、天寿山に葬られた。 孫の弘光帝が南明の皇帝に即位すると、孝寧温穆荘恵慈懿憲天裕聖太皇太后と追諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝寧太后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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