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孝懿王后(こういおうこう)は、李氏朝鮮第22代国王である正祖の正妃。本貫は清風金氏。 == 生涯 == 清原府院君金時黙と、その妻唐城府夫人洪氏の娘として生まれる。父の金時黙は顕宗の王妃であった明聖王后と親戚(祖父金道濟が明聖王后の甥にあたる)であった。清風金氏より世孫嬪(王の跡継ぎにあたる孫の正室)を、との英祖の意向により世孫李の正室に選ばれ、離宮に入宮したが、天然痘を患ったため回復を待った後、乾隆27年(1762年)2月、10歳で李と結婚して世孫嬪に冊封された。金氏の従姉妹は李の実母恵慶宮洪氏の弟と結婚し、王室と二重三重の姻戚関係を持つこととなった。 乾隆41年(1776年)、夫李が即位して正祖となったことに伴い王后に冊封された。正祖との間に子がなかったため、後宮のひとり綏嬪朴氏が産んだ李(後の純祖)を養子とした。嘉慶5年(1800年)に正祖が薨去した後は王大妃となった。 生前の金氏には尊号を与える話が多くあったが、これらを全て拒絶していた。道光元年(1821年)に69歳で薨去した後、水原(現在の華城市)の健陵に埋葬された。また尊号として「睿敬慈粹孝懿王后」が追贈されたが、後に「莊徽」も追贈されて「莊徽睿敬慈粹孝懿王后」となった〔「遷陵碑文。 正宗文成武烈聖仁莊孝大王、崇禎紀元後一百二十五年壬申九月二十二日誕生。 己卯冊封王世孫、乙未聽政、丙申即位、庚申六月二十八日昇遐、十一月初六日、葬于華城顯隆園東第二岡亥坐之原。 在位二十四年、壽四十九、辛巳九月十三日、遷奉于園之右麓子坐之原。 妃睿敬慈粹孝懿王后金氏、崇禎紀元後一百二十六年癸酉十二月十三日誕生、壬午冊封世孫嬪、丙申冊封王妃、庚申今上嗣位、尊爲王大妃。辛巳三月初九日昇遐、九月十三日、葬于健陵而同封。壽六十九。」(南公轍「正祖大王遷陵碑文」『朝鮮王朝実録』影印本第47本318)]〕。光武3年(1899年)には正祖が高宗より「正祖宣皇帝」と追尊されたことに伴い、「宣皇后」と追尊された〔「敢不從周家配天追尊之禮、以顯揚我列朝欽若昊穹之誠、仰答上帝眷顧之命、以示藐末無與之意?迺於今陰暦十一月十七日、率群臣躬詣太室、奉冊寶崇尊太祖大王爲太祖至仁啓運應天肇統廣勳永命聖文神武正義光德高皇帝、承仁順聖神懿王后爲高皇后、順元顯敬神德王后爲高皇后、追尊高祖考莊宗大王爲莊祖神文桓武莊獻廣孝懿皇帝、高祖妣獻敬王后爲懿皇后、曾祖考正宗大王爲正祖敬天明道洪德顯謨文成武烈聖仁莊孝宣皇帝, 曾祖妣莊徽睿敬慈粹孝懿王后爲宣皇后、…」(「」『朝鮮王朝実録』第43本39冊95枚A)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝懿王后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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