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張皇后(ちょうこうごう、1470年4月9日〔成化6年2月29日〕 - 1541年)は、明の弘治帝の皇后。孝康敬皇后(こうこうけいこうごう)、あるいは孝成敬皇后(こうせいけいこうごう)と諡された。 == 経歴 == 河間の人。太学生の張巒と金氏の長女として生まれた。成化23年(1487年)、皇太子妃に選ばれた。同年のうちに弘治帝が即位し、皇后に立てられた。 弘治帝の寵愛を一身に受けて、父の張巒は公爵となり、2人の弟をはじめ一族は高官に抜擢された。一族の貪婪は激しく、多くの恨みを買うこととなった。子の正徳帝が立つと、皇太后となった。正徳5年(1510年)、慈寿皇太后と号した。 正徳帝が崩じた際、男子も兄弟もなかったので、従弟の嘉靖帝を帝位に即かせた。しかし嘉靖帝の父母(興献王朱祐杭と妃蒋氏)を冷遇し、嘉靖帝から憎まれた。大礼の議の後、皇伯母皇太后と改称した。晩年は弟らが罪に問われるなど、憂憤のうちに嘉靖20年(1541年)崩じた。 没後、孝康靖粛荘慈哲懿翊天賛聖敬皇后の諡が贈られた。「孝康」の諡はかつて、建文帝が嫡母の懿文太子妃常氏に贈っていたが、永楽帝により廃されていた。南明において、常氏の諡号が回復されるとともに、張氏の諡号が孝成靖粛荘慈哲懿翊天賛聖敬皇后に改められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張皇后 (弘治帝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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