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孝文幽皇后(こうぶんゆうこうごう、皇興3年(469年)- 太和23年(499年))は、北魏の孝文帝の2人目の皇后。姓は馮氏、諱は不詳〔幽皇后の諱は「潤」とされることがあるが、信頼できる史料上には見られない。〕。 == 経歴 == 馮熙の庶出の娘として生まれた。文明太后(馮太后)の姪に当たる。生母の常氏は下賤の出自だったため妾のままであったが、寵愛を受け、正妻(博陵長公主)の死後、奥向きのことを取り仕切っていた。 太和7年(483年)、14歳の時、当時17歳になった孝文帝の妃の一人として、馮太后の推薦で妹(後の廃皇后馮氏)ら〔さらに他の妹2人も後宮入りし、孝文帝の貴人となっている。〕と共に後宮に入り貴人となった。美女であり、寵愛を受けた。しかし3年後に病気になり、馮太后に後宮を去って実家で静養するよう命じられた。太和18年(494年)にようやく病が癒えて再び後宮入りし、昭儀(皇后に次ぐ妃嬪の位)となる。しかしその間の太和14年(490年)に馮太后が死去、太和17年(493年)の喪明けに妹が孝文帝の皇后に指名されていた。このことから妹を逆恨みするようになる。 再び後宮入りした後は、ことあるごとに孝文帝に妹を讒言し、後宮から追放することに成功する。太和21年(497年)、待望の皇后に冊立される。同年、孝文帝の次男の母高貴人が変死するが、この裏にも皇后の陰謀があったとされる。翌年、皇太子元恂が賜死させられた後、高貴人出生の元恪が次の皇太子に指名されると、皇后は元恪らの嫡母となる。なお、皇后と孝文帝の間に子供はいなかった。 その後、孝文帝が出征すると、皇后は宦官高菩薩や中常侍双蒙らと乱行に耽るようになり、また自身の権力を固めるため、当時寡婦になったばかりの義妹(孝文帝の異母妹)彭城公主を自身の同母弟の馮夙と結婚させようとした。これらの所業が、戦陣にあった孝文帝に密告されるところとなる。孝文帝は当時病床にあったが、その報告を聞くや都にとって返し、処罰を下した。皇后の愛人たちは処刑された。皇后自身も、廃位は免れ、皇后として妃嬪たちから尊礼を受けたものの、皇太子との連絡を禁止された。 孝文帝の病は重くなり、太和23年(499年)に崩御したが、「没後に後宮の后は実家に帰し再婚も自由、ただ皇后だけは殺害するように」と遺言した。遺言を奉じた孝文帝の弟・北海王元詳らが皇后に自害するよう説いたが、皇后は嫌がり叫び逃げ回ったため、最後は人々に押さえ込まれて無理矢理毒を飲まされ、殺害された。幽と諡され、長陵の塚に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝文幽皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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