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孝昭王(こうしょうおう、687年 - 702年)は、新羅の第32代の王(在位:692年 – 702年)であり、姓は金、諱は理洪(『三国史記』新羅本紀・孝昭王紀の分注には理恭ともいう)。先代の神文王の長子であり、母は一吉飡(7等官)の金欽運(同・分注には金欽雲)の娘の神穆皇后。691年に太子に立てられており、692年7月に先王の死去に伴い王位に就いた。5歳での即位となるが、摂政が立てられたような記事は見られない〔7歳で即位した第24代の真興王には、即位直後は王母が摂政を務めたことが伝えられているが、孝昭王については摂政の記事は伝えられていない。また、即位の際の年齢、死去時の年齢についても伝わらない。〕。 == 治世 == 即位時に唐の武則天から、《新羅王・輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍・鶏林州都督》に冊封されており、699年2月に唐への朝貢を再開するなど、三国統一後の唐との間の緊張は緩和されることとなった〔唐と新羅との関係の改善については、共通の敵となる渤海国の成立(698年)に起因するとみられている。〕。また、698年3月には日本国からきた使者を崇礼殿で引見したと伝えられる〔『日本書紀』には同年の遣新羅使の記事は見られないが、7世紀末期には頻繁に使者の往来があった。〕。 国内官制については、王の即位とともに諱を避けるために理方府(立法を管轄)が議方府と改称された。695年には王都金城(慶尚北道慶州市)の市場としてそれまであった東市〔新羅における市場の設置、市典の配置は第22代智証麻立干の598年の東市・東市典に始まる。〕に加えて西市・南市を創設し、市場を管理する西市典・南市典の官を増設した。暦法の変更を試み、695年には子の月(陰暦11月)を正月とすることにし、700年には寅の月(夏王朝代に正月とされた陰暦の正月)を正月とすることにしたことが孝昭王紀には伝わっているが、当時の唐の暦法(麟徳暦)との関係など詳しいことは解かっていない。 在位11年にして702年7月に死去し、孝昭と諡されて望徳寺(慶州市排盤洞)の東に埋葬された。その王陵は現在の慶州市朝陽洞の史跡184号に比定されている。 孝昭王の死に当たって、唐では武則天が王のために葬儀を行なって政務を2日間執らなかったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝昭王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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