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献帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人(王栄)。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀からは孝愍皇帝。 == 生涯 == 母は劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという。母を失った劉協は、霊帝の生母の董太后が住む宮殿で養育されたため、董侯と呼ばれた〔『後漢紀』によると、既に当時、霊帝には嫡妻の何氏が産んだ長男の劉弁がいたが、暗愚であったため皇太子に立てていなかった。そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。しかし霊帝は何氏を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していたため、結局、劉協を後継者に指名できなかった〕。 中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し〔霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。蹇碩は董太后や董重とともに何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。〕、劉協は渤海王に封じられた〔劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにも関わらず、父帝の死を悼み悲しんだ。その様子を見た大臣たちは皆心を痛めたという。〕。 同年秋7月、陳留王に移封される。 当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿〔当時、雒陽城の南宮にあった御殿の一つ。〕の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。数日で宦官勢力は敗れた。しかし、その際に陳留王は少帝とともに張譲・段珪によって、雒陽(洛陽)から連れ去られた〔袁術が雒陽城の南宮を攻めると、張譲らは中黄門に命じて宮殿の門を閉ざした。袁術が青琑門(嘉徳殿の門)に火を放つと、張譲らは長楽宮に参内し、何太后・少帝・陳留王を連れて複道を通り、北宮の崇徳殿へ移った。しかし、袁紹の兵が北宮に攻め入って来たため、少帝と陳留王をまた連れ出し、僅かな供回りを伴い雒陽の北門(穀門)から逃げた。一行は夜に黄河の畔の小平津に辿り着いた。しかし、そこで尚書の盧植らが中常侍を討ち、少帝らを保護した。〕。間もなく盧植らに保護され、帰還する事ができた〔少帝と陳留王は、蛍の微かな光を頼りに夜道を数里歩いた後、ようやく民家で手に入れた露車(幌などの覆いが無い車)へ乗る事ができたという。北芒山の北まで来ると、少帝は馬に乗り換え、陳留王も河南中部掾の閔貢が御す馬に乗って帰還した。〕。 その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓〔雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は17歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。〕によって握られた。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された〔間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。〕。 初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した〔遷都が実施されたのは、2月17日の事。献帝が長安へ着いたのは3月5日だった。この時、洛陽の民も董卓によって強制的に移住させられた。〕。同3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われた。そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切った。ところが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し〔戦闘での官吏や民の死者は数万人に昇ったという。また、長安周辺の民は李傕らの略奪と破壊に遭い、数年の間飢餓に苦しんだという。〕、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。 興平元年(194年)春正月、献帝は元服した。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬した。翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた〔3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。郭汜が李傕を攻めた際は、夥しい数の矢が射込まれ、献帝の傍近くにまで届いたという。〕。 建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還した。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都した。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという〔『後漢書』献帝伏皇后紀〕。 196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった〔曹操は周の文王にならい皇帝にはならなかった。また皇帝になれば、劉備や孫権も皇帝を名乗るという乱立が起きる恐れがあった。皇帝の乱立は曹操の死後、曹丕が漢王朝を廃し皇帝に即位したことで現実のものとなった。〕。建安19年(214年)には献帝の皇后伏氏が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。 建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位した。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった〔献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは堯が舜に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。〕。 皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還する事を幾度も拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き、玉璽を放り投げ涙を流した。その場に居た者は皆顔を上げられなかったといわれる〔なお『三国志演義』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが、毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。〕。 劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。 益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であると称し漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も呉王となり、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。 その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「献帝 (漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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