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孝荘帝(こうそうてい、507年 - 531年、在位:528年 - 530年)は、北魏の第9代皇帝。姓は元、諱は子攸。彭城王元勰の三男で、第6代皇帝孝文帝の甥にあたる。母は正室の李媛華。 == 生涯 == 孝明帝の初年、父の元勰の勲功により武城県公に封ぜられた。幼い頃から宮中に入って孝明帝に侍従し、成長した。少年期には抜きん出た美少年と謳われた。526年8月、長楽王に封ぜられ、侍中・中軍将軍に転じた。527年10月、衛将軍・左光禄大夫・中書監となった。 528年2月、孝明帝が生母の胡太后によって殺害されると、これに対して爾朱栄が挙兵した。子攸は黄河を渡って河陽に入り、爾朱栄と合流した。4月、子攸は爾朱栄によって北魏の皇帝に擁立され、胡太后らは黄河に沈められた(河陰の変)。洛陽の太極殿に入ると、大赦して建義と改元した。爾朱栄の娘(大爾朱氏)をめとって皇后に立て、朝政の実権は岳父の爾朱栄が掌握することになった。 529年、元顥が南朝梁の兵を借りて北進し、魏帝を称した。5月、元顥が洛陽に迫ると、孝荘帝は黄河の北の河内郡に避難した。まもなく洛陽は元顥に占拠された。7月、爾朱栄らが元顥を討ち、孝荘帝は洛陽に帰還することができた。 ときに孝荘帝は爾朱栄の傀儡に等しく、これを不満に思っていた。530年9月、爾朱皇后が妊娠したことから、この報を爾朱栄と爾朱菩提の父子に知らせ、宮中に誘き寄せて謀殺した。 しかし爾朱栄の一族である爾朱兆・爾朱世隆らが起兵し、長広王元曄を擁立した。12月に洛陽が落とされて、孝荘帝は拘束された。身柄を永寧寺に移されて、爾朱皇后が生まれたばかりの皇子をも殺された。さらに晋陽に身柄を移されて、12月13日(531年1月16日)、城内の三級仏寺で殺害された。 死に際して詩を遺している。 :権去生道促、憂来死路長。 :懐恨出国門、含悲入鬼郷。 :隧門一時閉、幽庭豈復光。 :思鳥吟青松、哀風吹白楊。 :昔来聞死苦、何言身自当。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝荘帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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