|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 孝 : [こう] 【名詞】 1. filial piety ・ 蔵 : [そう, くら, ぞう] 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator ・ 主 : [ぬし, おも] 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god
孝蔵主(こうぞうす、? - 寛永3年4月14日(1626年5月9日)〔内藤耻叟『徳川十五代史』巻之4:43頁〕)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した女性。豊臣秀吉の正室・高台院付きの筆頭上臈で、後に徳川秀忠付き上臈となった。「孝蔵主」は上臈としての雅名であり、実名は不明。 == 生涯 == 蒲生氏の家臣・川副勝重の娘として生まれ、出家して孝蔵主と名乗る〔桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)142頁〕。 高台院に仕え始めた正確な時期は不詳であるが、豊臣秀吉が関白になった頃には奥を取り仕切る責任者となっていたと思われる。天正18年(1590年)には謀反の疑いをもたれた伊達政宗に対し秀吉の代理として詰問の書状を送り、慶長2年(1597年)、蔚山城の戦いにおける失態で小早川秀秋の筑前国から越前国へ懲罰的移封が決定した際にも、実務を取り仕切っている。秀吉より謀反の疑いをかけられた豊臣秀次を聚楽第から大阪城へ出頭するように説得する使者の役割を命じられたこともある。また、内裏への進上物を持参していることから高台院付きの女房の上位にいたことがわかる〔田端泰子『北政所おね―大坂の事は、ことの葉もなし―』(ミネルヴァ書房、2007年8月)119頁〕。そのため、「表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの権威を持っていた。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、慶長4年(1599年)に高台院と共に大坂城を退去し、京の三本木(現在の祇園付近)に移る。その後は高台院執事として大津城の戦いの講和交渉役や徳川家康との折衝役などを務める。しかし慶長19年(1614年)、大坂の陣の直前に駿府に赴き、その後は徳川秀忠にから、江戸城下に屋敷を与えられ、寛永2年(1625年)10月23日には河内国深井村に200石の領地を与えられる〔桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)144頁〕。 寛永3年(1626年)に死去。生涯未婚であったため子はいなかったが、特別に甥・川副重次が養子となり200石を嗣いだ。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝蔵主」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|