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孟 光(もう こう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は孝裕。司隷河南郡洛陽県の人。大尉孟郁の一族。はじめ後漢に、後に蜀漢に仕えた。 「蜀書」、杜周杜許孟来尹李譙郤伝 - 孟光伝には、 「博学で古代の知識に詳しく、あらゆる書物を読破していたが、 最も「三史」(「史記」「漢書」「東観漢記」)の研究に意を注ぎ、漢王朝の古い制度に詳しかった。 「公羊春秋」を好み、「左氏春秋」には批判を浴びせ、来敏とこの両伝の「春秋」の解釈について優劣を議論すると、いつも孟光は大声で捲くし立てた。」 とする記述がある。 また、直言を憚らなかったようである。 == 出来事 (年代順) == *霊帝の末年、講部吏となる。 *献帝の長安遷都の折、益州に逃げ込み、劉焉父子から客礼をもって待遇される。 *劉備の益州平定後、議朗に任命され、許慈らとともに宮中制度の制定にあたる。 *劉禅即位後、符節令・屯騎校尉・長楽少府となり大司農にまで昇進。 *延熙9年(246年)秋、大赦令が出されると、これを非難。 *ある事件にひっかかり免官。 *九十余歳で亡くなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孟光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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