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孫太郎 : ミニ英和和英辞書
孫太郎[まごたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まご]
 【名詞】 1. grandchild 

孫太郎 : ウィキペディア日本語版
孫太郎[まごたろう]
孫太郎(まごたろう 孫太郞、延享元年(1744年) - 文化4年(1807年))または孫七(まごしち)は、江戸時代の船乗り(水主)である。
なお、本項の日付はすべて旧暦で記している。
== 生い立ちと漂流の経緯 ==
孫太郎は延享元年(1744年)に福岡藩筑前国志摩郡唐泊浦(現福岡県福岡市西区宮浦)で生まれた〔『近世漂流記集』p122〕。
宝暦13年(1763年10月6日、孫太郎は五カ浦廻船所属の伊勢丸(20人乗り 1600)の乗組員として唐泊から大坂に向かった。伊勢丸は当時五カ浦廻船でも最大級の新造船であり、船頭は船主である青柳文八の息子である青柳十右衛門(重右衛門とも)がつとめていたが、十右衛門はまだ18歳であったため、船の指揮権は船親仁(甲板長)の仁兵衛と楫取(航海長)の新七が事実上握っていた〔『江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚』p173〕。
伊勢丸は福岡藩の藩米を大坂に輸送した後、豊前国中津(現大分県中津市)に戻り年を越し、翌明和元年(1764年2月16日中津藩の藩米を積んで江戸に向かった。江戸には4月頃に到着し、4月6日には津軽藩の依頼を受けて江戸と青森の間を往復して米を運んだ後、6月に再び江戸を出航し津軽に向かった。この航海の途中、鹿島灘で炊(かしき 船員見習い)の源蔵が海に落ちて行方不明となったため、途中で寄港した南部藩領才の浦で貞五郎という者を新たに雇った。その後伊勢丸は津軽藩領小泊(現青森県北津軽郡中泊町小泊)で材木を積み、8月頃に箱館に寄港した。しかし、箱館では長作という船員が船の金を盗んで宿屋の娘と駆け落ちしたため、伊勢丸の船員の士気は著しく低下することになった〔『江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚』p173〕〔『近世漂流記集』pp122-124〕。結局長作は見つからず、伊勢丸は江戸に向かうために箱館を出航し、8月24日仙台藩領水崎小浦に寄港した。一行はここで源蔵の供養をするために僧を呼ぶと同時に長作の代わりとなる者を探し、新たに金碇長太という者を雇った〔『近世漂流記集』p124〕。
伊勢丸は水崎小浦を10月4日深夜に出航し、15日朝に箒木浦(現宮城県石巻市福貴浦)に入港した。ここで風待ちのため数日滞在した後、10月20日早朝に箒木浦を出航したのだが、その日の夕方、塩屋埼(現福島県いわき市)沖を航行中に嵐に遭遇した。そのため、乗組員たちは全員で集まって相談したのだが、江戸に向かうべきと主張する船親仁の仁兵衛と、港に戻るべきと主張する楫取の新七の間で意見が割れた。幹部たちの対立に孫太郎たち平船員は口を出すことはできず、18歳の船頭である十右衛門も口を挟むことができなかった。伊勢丸の意見がまとまらない間に、近海を航行中の他の船はほとんど避難を終え、残されたのは伊勢丸と残島(能古島)の村丸だけとなっていた〔『江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚』pp174-175〕。
日没後、風と波は更に激しさを増し、伊勢丸は村丸とも散り散りになった。船への浸水は激しく、積荷の材木を海中に捨てても船への浸水は止まらなかった。この時の嵐のことを後に孫太郎は、
と述べている。この嵐によって翌21日に伊勢丸のは流され航行不能となり、乗組員たちは船のバランスを保つためにマストを切り倒すと同時に、船板で代用の舵を作った。しかしその舵も23日未明までに流されてしまい、伊勢丸は完全に航行不能となった。
嵐は11月に入った頃にようやく止んだが、伊勢丸は西風によって太平洋上を東南に流され続けた。しかし12月14日に風が止んだことにより、伊勢丸は北赤道海流に乗り、今度は西に流されるようになった〔『江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚』p178〕。この頃、仁兵衛は塩屋埼沖での事に対して責任を感じて自殺を図るのだが、新七をはじめ他の船員に励まされ、自殺を思い留まった〔『近世漂流記集』pp127-128〕。これ以降、伊勢丸の乗組員の結束は固くなり、食糧の米が残り少なくなった時も、雪駄の裏皮を使ってルアーを作り、魚を釣って乗り切ったり、時に冗談を言い合って互いに慰め合った。
しかし12月下旬になると穀物と飲料水の不足はさらに激しくなり、乗組員たちは昆布の入った水1(18.039リットル)に米2(約3.6リットル 20)が入ったを20人で分けた。この頃になると乗組員全員が飢え死にを覚悟し、「水を飲んでいないのに常に涙がこぼれている〔『近世漂流記集』p130〕」状態となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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