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孫 宝琦(そん ほうき)は清末民初の政治家・外交官。清末の外交官で、民国時代には北京政府で外交総長や国務院総理(内閣総理)をつとめた。字は慕韓。 == 事跡 == 父の孫詒経は、清の戸部侍郎で、光緒帝の教師もつとめた事がある。孫宝琦は、1901年(光緒27年)から、ドイツ、日本、ポルトガル、フランスなどの大使館(公使館)の随員をつとめる。 1902年(光緒28年)7月、出使法国大臣(フランス公使)に昇進した。光緒31年(1905年)に帰国し、署順天府尹に任命される。1907年(光緒33年)4月、出使徳国大臣(ドイツ公使)に任命された。1908年(光緒34年)に帰国し、幇弁津浦鉄路大臣に任命される。1911年(宣統3年)には山東巡撫に転じた。この間、山東省におけるドイツの鉱山利権取得の動きを掣肘するなどしている。 1913年(民国2年)9月、北京政府の熊希齢内閣で外交総長に任命された。翌年2月12日には、代理国務総理を兼任した(同年5月1日まで)。1915年(民国4年)1月には審計院長に、1916年(民国5年)4月には段祺瑞内閣で財務総長(6月から、漢冶萍公司董事長(理事長)・税務督弁を兼任)に、それぞれ任じられた。1920年(民国9年)春、経済調査局総裁に任命された。 1922年(民国11年)1月、揚子江水道討論委員会会長を、同年4月、外交部太平洋会議善後委員会副会長を、それぞれつとめる。1924年(民国13年)1月12日から7月2日まで、国務総理に再任された。1925年(民国14年)2月、淞滬商埠督弁をつとめた。同年8月、駐ソ大使に任命されたが、就任しなかった。1926年(民国15年)、中法大学董事長を務める。 1931年(民国20年)2月3日、上海で死去。享年65。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫宝キ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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