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孫 峻(そん しゅん、219年 - 256年〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕)は、中国三国時代の武将・政治家。字は子遠。呉の皇族である孫氏の一族。孫堅の弟の孫静の曾孫。祖父は孫暠、父は孫恭。従弟に孫綝。『三国志』呉志に伝がある。 == 生涯 == 父の孫恭は呉に仕え、散騎乗侍までなっている。孫峻は馬術・弓術に巧みで、思い切りが良かったという。 呉の大帝孫権の治世の末期に武衛都尉から侍中となる。 孫権の後継者を皇太子孫和と魯王孫覇が争った二宮事件の際、孫権が臣下同士の争いに決着をつけようとはかるために孫和の廃立を相談したとき、その相談相手となっている。孫権は孫和を廃立し末子の孫亮を立てた〔『三国志』『「呉主五子伝」が引く『通語』〕。 後に孫権の病が重くなると、争いの真相に気づいて孫和を許そうとしたときは、孫弘や全公主(孫魯班)と共にこれを阻止したという〔『三国志』『「呉主五子伝」が引く『呉書』〕。 孫権が臨終の際には、孫権に諸葛恪を主君の補佐役に強く推薦した〔『三国志』呉志「諸葛恪伝」が引く『呉書』〕。孫峻は武衛将軍・侍中・都郷侯となり、政務一般の輔弼を孫権から委ねられた。孫権の死後、まもなく孫弘が諸葛恪の暗殺を謀ると、孫峻はそのことを諸葛恪に知らせて共に孫弘を殺害した〔『三国志』呉志「諸葛恪伝」〕。 孫亮が即位すると諸葛恪・滕胤と共に協力して政治を行う。しかし、諸葛恪は魏への遠征を強行し敗戦すると〔『三国志』呉志「三嗣主伝」建興2年(253年3月に出征、4月に合肥新城を包囲するが陥落させられず、8月に帰還。)〕、権力的な不安から次第に独裁色を強め、近衛軍の人事などをめぐり孫峻らと対立する。そこで孫峻は、皇帝の孫亮を抱き込み、諸葛恪を宴会に呼び寄せて勅命と称して自ら斬殺した。孫峻は宴席の場で諸葛恪の側近の散騎常侍の張約の右腕を自ら剣をふるって斬り落とし、騒ぎを聞きつけた衛兵が来ると、諸葛恪を殺害したことを告げて衛兵を下がらせ、床を掃除するとそのまま宴会を継続したという〔『三国志』呉志「諸葛恪伝」。なお、同書「三嗣主伝」によると諸葛恪が誅殺されたのは建興2年(253年)10月。〕。騎督の劉承に命じて逃亡した諸葛恪の一族や都郷侯の張震、常侍の朱恩などそれに連なる人達を追撃させ、ことごとく殺害した。元太子の南陽王の孫和も諸葛恪と図って復権を図っていたとして印綬を没収し新都に強制移住させた上で自殺を命じた(『三国志』呉志「呉主五子伝」)。諸葛恪と親しかった丹陽太守の聶友を疎んじ、鬱林太守へ左遷することを企て、聶友を憂死させた。〔『三国志』呉志「諸葛恪伝」〕。 滕胤は諸葛恪と親しく、また縁戚でもあったため、自ら辞職を申し出たが、孫峻は慰留させた。群臣達は、孫峻を太尉、滕胤を司徒に任命するよう上奏したが、孫峻に阿る者達がいたためこれは実現しなかった(『呉録』)。結局は、孫峻が丞相・大将軍・富春侯となり呉の実権を掌握することになった。丞相の副官である御史大夫は設置されなかったという(『呉録』)。孫峻と滕胤は内心ではしっくりしないものがあったが、表面上はお互いを立てたため、共同歩調をとっていた。孫峻は滕胤を高密侯に昇進させた。 孫峻の政治は、諸葛恪と何ら変わらぬ皇帝を傀儡とした専横だった。さらに、元々名声がなかったことに加え、多くの人々を処刑し、全公主(孫魯班)と密通し、魯班の意を受け、毎晩宮女を犯すなどして専横を極めたため、周囲から恨まれた。 五鳳元年(254年)秋〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕、呉侯孫英〔『三国志』呉志「呉主五子伝」によると、元太子の孫登の子。〕が孫峻の誅殺を計画したが、計画が洩れて自殺した。 五鳳2年(255年)春正月〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕、魏の毌丘倹・文欽が寿春で反乱を起こし、魏の追討軍を迎撃するため寿春を留守にした。孫峻はその隙に乗じて、呂拠・留賛を率いて寿春を襲撃しようとした〔『三国志』呉志「三嗣主伝」によると、五鳳2年(255年)閏正月。〕。魏の司馬師は項城で毌丘倹〔『三国志』魏志「毌丘倹伝」〕、楽嘉で文欽を引きつけている隙に、諸葛誕に命じて寿春を平定させたため、先んじられた孫峻は軍を撤退した(毌丘倹・文欽の乱)。その途中、楽嘉で敗北した文欽が数万の兵とともに投降してきたため、これを迎え入れた〔『三国志』呉志「三嗣主伝」によると、五鳳2年(255年)閏正月の19日。〕。撤退時に呂拠・丁奉を派遣して高亭で魏の曹珍を破った。留賛が病気になったため帰還させようとしたが、諸葛誕が派遣した蒋班の別働隊に追撃を受け、菰陂において留賛は将軍の孫楞、蔣脩と共に殺害された〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 同年3月、鎮南将軍の朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させることは出来なかった〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 同年秋7月、蜀からの使者がやってくると、将軍の孫儀・張怡・林恂は会見の宴席上で孫峻を誅殺しようとした。またも計画は発覚し孫儀らは自殺した。数十人の者が連座し、朱公主(朱拠の未亡人、孫魯育)も誅殺された。 孫峻は広陵に城を築き、北伐の拠点としようとした。滕胤には諌められたが、孫峻はそれを黙殺して続行した。しかし、城は完成することはなかった〔『三国志』呉志「呉主五子伝」によると、衛尉の馮朝が築城を命じられたとあり、また、将軍の呉穣が広陵太守、留略が東海太守に任命されたとある。また、同書同伝によると、馮朝が監軍使者・督諸軍事に任命されている。〕。民衆は餓え、軍士らの心も離れたという〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕 五鳳3年(256年)8月〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕、寵愛する降将の文欽〔『三国志』魏志「毌丘倹伝」が引く『呉書』〕の勧めにより文欽・劉簒・呂拠・朱異・唐咨を先鋒に青州・徐州へ侵略しようとした。孫峻は滕胤と共に石頭まで出かけて、出征軍のための宴席を張り、従者を100人ほど引き連れて呂拠の陣屋に入った。しかし、呂拠が軍を乱れなく統率している姿を見て警戒する気持ちになり、心臓が悪くなったと称してすぐに引き上げた。 孫峻はまもなく、諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れにより病に倒れた。そのまま同年のうちに病死した〔『三国志』呉志「三嗣主伝」によると、9月14日。〕。38歳であった。 孫峻の死後、遺言により従弟で偏将軍であった孫綝が孫峻の立場を引き継ぐことになった。孫綝は対立する呂拠や滕胤を滅ぼし、孫峻と同様に専横の限りを尽くした。やがて孫綝は孫亮を廃立し孫休を立てたが、その孫休の謀略により処刑されると、孫峻は墓を暴かれ、副葬されていた印綬を剥奪され、棺を削って埋め戻された。 小説『三国志演義』でも、驕慢となった諸葛恪が暗殺される場面で、その首謀者として登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫峻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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