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孫恩の乱(そんおんのらん)は、中国東晋末期の399年(隆安3年)10月に孫恩が起こした反乱。後の盧循の乱と合わせて、孫恩・盧循の乱と呼ばれることもある。 == 反乱前夜 == 孫恩の叔父にあたる孫泰(字は敬遠)は、五斗米道の師で不思議な術を使う杜炅に師事し、その死後秘術を受け継いで使うようになった。孫泰は神のようにあがめられ、誰もが全財産を差し出すようになった。 王珣は会稽王の司馬道子を説いて、孫泰を広州(広東省・広西省)に流した。広州刺史の王懐之は孫泰に鬱林郡(広西省桂平県)の職務を取らせたので、そこの住民も帰依するようになっていった。 太子少博(皇太子教育係)の王雅はかねてより孫泰と親しく、孝武帝に孫泰が養性術に詳しいことを申し上げたため、広州から呼び戻された。孫泰は徐州の主簿に任命され、さらに輔国将軍・新安(浙江省淳安県)太守となった。会稽王の世継ぎである司馬元顕も、秘術を授けてくれるように頼むようになった。 孫泰は各地で戦が始まるのを見て、晋の命脈は尽きかけていると考えた。そこで民衆を扇動し、密かに仲間を集めた。三呉地方(江蘇省呉県・浙江省呉興・紹興両県一帯)の士人や庶民がこれにつき従った。当時朝廷の士人の誰もが、孫泰が反乱を起こすのではないかと恐れてはいたものの、彼が司馬元顕と親しくしていたため、あえてそのことを言い出すものはいなかった。しかし、会稽内史の謝輶がその陰謀を暴いたので、司馬道子は孫泰を死刑に処した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫恩の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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